(09) 4日目 6月4日 思いの領域で勝利する。
思いの領域における霊的戦いについては、2日目の(血肉に対するものではない)の中でかなり書きましたが、重要なポイントなので、もう少し書きたいと思います。
私たちの思いの領域は、霊的戦いの中心的な場所です。それは先に書いたように、私たちの魂が神の働きであれ悪霊のわざであれ進入したりとどめたりするバルブ役だからです。
霊的戦いの中で混乱が生じます。どのようにして思いを正常にするかについて書きます。
(1)賛美、礼拝、祈り、御言葉
私たちの問題の解決は神にあるのですから、何を差し置いても神に近づく努力が必要です。
これについてはいくらでも書くことができますが、今回は省略いたします。それは、ただ、クリスチャンなら既に知っているはずだというのではなく、多くの問題は、それらを(ある程度)実行しているにもかかわらず、問題がなくならないことにあります。
(2)異言の祈り
異言の祈りもまた、上記と同じ分野にジャンルわけされるべきものですが、ここでわざわざ書き出したのには意味があります。それは、異言の祈りは自分の意思で霊的世界を動かすことができる有効な方法だからです。たとえ、思いがいっぱいいっぱいで祈る気にも賛美する気にもならなかったとしても、異言で祈ることはできるのです。
異言の祈りを知らない人は、異言と聞くと何かに取り付かれたようになり、恍惚状態でわけのわからない言葉を語るものだと考える人がいます。もちろん、聖霊に満たされ具合の程度によってはある程度そうなるかもしれませんが、基本的にはそうではありません。
(第1コリント14:32)に預言者の霊は預言者に服従するとありますが、私たちは自分の意思で聖霊の賜物をコントロールすることができるのです。
異言を語るときにちょっと不思議に思うことがあります。それは異言を語っている間にも他ごとを考えることができることです。これは異言の祈りは私たちの魂を介さずに霊が直接肉体に作用しているからです。
もちろん、魂の分野も必要です。すなわち、祈り始めたり、声を大きくしたり、いつ祈り終えるかという意味での意思を用いる必要があります。しかし、基本的には魂を介さないので、たとえ私たちがどれほど思い悩み心がいっぱいになっていたとしても、異言で祈ることができます。そして祈り続けるなら、霊的に開かれてくるのです。
けっこう少なくない人が、自分の語っているのは異言ではない、あるいは異言だけど意味がないと考えます。それは、自分でただ、口を動かしているだけではないかと考えるからです。
そして、こう考えます。もし、これが聖霊による祈りであるなら、もっとダイナミックで感動的であるはずなのでそうではないので、これは異言の祈りではないと考えるのです。
異言とは聖霊の賜物のひとつですし、聖霊による祈りだといわれているので、その作用は100%聖霊によるものであるべきだと考える人がいますがそうではありません。聖書にはなんと書いているでしょうか。
日本語の聖書ではわかりにくいですが(第1コリント14:14)は日本語で見ても「私の霊は祈る」とはっきりと書いています。つまり異言の祈りとは自分の霊が祈っているのです。
正確に言うなら、聖霊によって活気付けられた自分の霊です。聖霊と共に祈ります。聖霊と自分の霊との比率は正確にはわかりませんが、祈りはじめはほとんどは自分の意思によってはじめ、自分の霊で祈ることでしょう。
しかし、だんだん祈りが乗ってくると、ほとばしるように異言が出てくるかもしれません。つまり30%が聖霊というわけです。そしてついに聖霊に捕らえられた状態になることでしょう。それはもしかしたら80%が聖霊かもしれません。
いずれにしても、聖霊がどの程度関わっているかに問わず、異言の祈りは大切であり、また、祈り続けるなら、聖霊も強く働き始めるのです。
私たちの魂を介さないので特に思いの領域で戦っているときには異言の祈りは有効なのです。
(4)悔い改め
(詩篇51:17)にあるように 悔い改めの心は最高の神へのいけにえです。
(イザヤ59:1-2)には罪が私たちと神との間の妨げになっていると書いています。悔い改めによって神に近づきましょう。
(3)人との関係
信仰生活は、神との関係だけではありません。十字架には縦の棒と横の棒があるように、縦(神)との関係だけではなく横(神にある家族)との関係も重要になってきます。
(マタイ5:23-26)には兄弟に恨まれているのを思い出したら、神の元に行く前に和解するように勧めています。なぜなら、人との不和が自分と神との関係を妨げてしまうからです。
もちろん、神には不可能はありませんので、神の元に行くのがすべての問題の解決なのですが、いつも、どんな場合でも何が何でも神のもとにいけばよいとはいいません。ある事柄に関しては、神の元に行くために和解が必要なのです。
謝罪をするときに神の霊の風が吹きます。
それは単に、「謝罪するのが良い」とか「御言葉が命じているから」というだけではありまえん。口先だけの謝罪でもしないよりはましかもしれませんが、それほど効果的ではありません。
心から謝罪するには、あるいは、相手にも非があるような場合にもかかわらず謝罪するには「へりくだり」が必要です。
しかし、へりくだりがあるときに神の霊が働くのです。なぜならへりくだりは神様の性質だからです。サタンは多くの神の業を真似することができますが、できないことがあります。それはへりくだることです。サタンは元みつかいの頭でしたが高慢ゆえ堕落してしまいました。高慢であるときに、人はサタンの餌食になりますし、へりくだるときに、それはサタンの支配を拒絶することになります。
「赦しと謝罪」という記事にあるように、謝ったり赦しをしたからといって相手を全面的に正しいとするわけではありませんし、謝罪したからといて相手の奴隷にならなければならないわけではありません。ただ、へりくだりの心を持つなら、すべてを見ておられる神が解決に至らせてくださるのです。
デボーション
(1)異言で祈りましょう。
(2)神との間の妨げになっているものを取り除きましょう。
(3)熱心に、祈り、賛美し、聖書を読みましょう。