第2日目:霊の律法(イスラエルの回復の約束から目をそらさせるもの)

今回のタイトル名は複雑です。本来は「イスラエルの回復の約束から目をそらさせるもの」あるいは「旧約が聖書である」にするはずでした。

しかし「イスラエルの回復」の約束を信じない人がいる原因が「新約聖書は旧約聖書をそのまま引継ぎ踏襲したものである」こと、すなわち「旧約の内容を否定していない」ということを知らないことにあり、また

その説明をする過程で、旧約の律法と新約の霊の律法についても解説することになりますのでこのようなタイトルになりました。


■イスラエルの回復について理解するのに必要なのは、回復の約束を知る以上に、理解をくらませている妨げを取り除く必要がある

今回の断食のテーマはイスラエルです。通常それに関連した解説を書くものですが、今回はそれについては多くは書きません。なぜなら聖書を読むならイスラエルの回復について書いていることが明らかです。

問題はそんなに明らかなことにもかかわらず、聖書を読み間違えてしまう原因があるからです。ですから、そのつまずきとなる勘違いについて書いてみましょう。

新約聖書に書かれた聖書とは旧約聖書のことです。もちろん、私は「聖書は誤りのない神の言葉である」と信じていますし、それは新約聖書に対しても同様です。
けれども性質的には新約聖書は旧約聖書をキリストという光に照らし合わせて解き明かしたものです。
ですから、新約聖書の言葉とは旧約聖書に新たに付け足されたことばというよりは、旧約聖書を解き明かしたものであり、旧約聖書の中に新約聖書がすでにあったといえるでしょう。

ですから、聖書を読む基本は(マタイ24:35)(マタイ5:17〜20)にあるように新旧聖書の内容はすべて正しいものであり、今日にも有効であということです。


■新約時代に求められる律法は律法の本質を行うこと

しかし、そう考えるときに、ある矛盾が生じてきます。
それは、「どうして今日律法を守らなくても良いのか?」ということです。

もし、旧約の律法が変わっていないとするなら確かにそのような矛盾を感じるかもしれませんが「どうして私たちは旧約の律法を守らなくても良いのか」という記事に書かれた「律法の本質を行う」ということ知れば理解できることでしょう。


過ぎ越しから50日目のペンテコステは教会にとっては聖霊が注がれた日ですがイスラエルにとってはモーセの律法が与えられた日です。

ペンテコステのこの時に、与えられた恵みと神の救いに思いをはせましょう。


デボーションのテーマ

1) 旧約と新約が一貫した神の計画であることに対する確信を受けましょう。

2) イスラエルの回復の為に祈りましょう

3) 霊の律法を行えるようにさらなる聖化の歩みを神に求めましょう。