4日目:イエス中心(Focus on Jesus)
父なる神はご自身の性質をあらわすオブジェクトレッスン(視覚教材)としてイエスキリストをこの地上に遣わしました。
キリストは教会の頭であり、花嫁なる教会の花婿です。
ですから、キリストを中心とした教会形成がなされるというのは重要なことです。
「イエス様中心」についての教えというと、思い浮かぶテーマとしては
イエスを主とする生活。賛美礼拝する。ということが多いでしょうが、今回は趣向を変えて彼のご性質について語りたいと思います。
(1) へりくだり
サーバントリーダーシップ(しもべ的なリーダー)という言葉をご存知でしょうか? もともとはビジネスの現場で提唱された言葉で「上司が支配するのではなく、部下を下から支える形でチームを建て上げるスタイル」です。
イエス様こそ、このサーバントリーダーシップの模範です。
(2) 弱いものに寄り添う
(マタイ12:20)にイエス様は「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」とあるように、弱い存在に寄り添う方です。
(3) 罪に定めない
イエス様はが来られたのは(ヨハネ3:16-17)に「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではない」とあるようにイエス様は誰をも罪に定めません。
このことは姦淫の現場でとらえられた女の話(ヨハ 8:10-12)の中でイエス様が女を裁かなかったことにも表れています。
※ さばきを行わないと書かれたその他の御言葉(ヨハ 8:15) (ヨハ 12:47)
しかし、聖書をよく読んでいる人は「イエス様が裁きを行う」と書かれた御言葉がたくさんあることに気が付かれることでしょう。(ヨハ 5:27)(ヨハ 3:29)その矛盾をどのように考えればよいのでしょうか。
それについて知りたい方は次の(参考記事)をお読みください。
いずれにしても、彼がそのような性質であるなら、私たちも、その御足に従うので。
★「枯れる教会」に見られるその反対の意味★
それは「イエス中心ではなく「牧師中心」 」 です。前回の「権威独占」というテーマでその弊害についてみてきましたが、そのような意味だけでなくほかにも様々な弊害があります。
☆ 牧師を神に近いものとする
この意味は、牧師をほめたたえるということを言っているのではありません。
教会でたまに見られる問題は神様に求めることを牧師に求めることです。
それは、愛をあらわすこと、えこひいきしないこと、公正な判断(さばき)を行うことなどについてです。
もちろん、愛すること、えこひいきしないこと、公正な判断をすることは大切なことですが、しかし、それを期待しても二つの理由で裏切られることでしょう。
一つは牧師は完全ではありませんし、限界があるからです。
もう一つは受け取り手側の問題として、自分が抱えている心の傷や先入観が邪魔をしてただしく状況を理解できないからです。つまり、えこひいきがあるわけではないのに、それが起こっているように感じてしまうなどといった出来事です。
牧師を神のように思うなら、必ず傷ついてしまいます。牧師に対してだけでなく教会に対しても不信感を持ってしまうことでしょう。
牧師の役割の中心は父親になることではなく、父なる神を紹介しつなげることにあります。
その過程の中で、父親的な役割を担ったり、そのイメージを引き受けて働きをすることがありますがそれが最終的にあるべき姿ではないのです。
★SCGの場合
牧師を教会の中心に据えて考える人は、私たちの教会の場合、もう一つの理由で失望するかもしれません。
それは前回言及した「チームミニストリー」にも関係していますが、私たちの教会では牧師だけですべての働きを完結しないようにしています。
つまり牧師が一人ですれば完全にできる働きであったとしても、聖徒達が整えられるのを待つ過程で不完全さが生じてしまうこともあるからです。
★祈りの課題★
イエスさまを中心とした生活ができますように。
イエス様のご性質をおびることができますように。
一人一人の中に正しい父なる神のイメージが与えられ、その方とつながりますように。
地上の父親に躓いたことによって、父なる神のイメージがゆがめられたり、牧師に躓いている人がいるなら癒されますように。