H2 (月曜日)(配信は日曜日)

礼拝出席至上主義ではないことのリスク

日曜日は自分が所属する教会の礼拝に出席するものです。はい、わたしもそう思います。
しかしそれが恐れによって、そのように仕向けられているとしたそれは本末転倒です。

「日曜日は安息日なので、安息日を覚えて聖としなければなりません。ですから、日曜日は仕事をしてはならず、必ず礼拝に出席しましょう。」まあ、そこまで言わなかったとしても、そのような感じで指導してる教会も多いです。


日曜日の事を安息日と呼ぶことがありますがそれは正確ではありません。

しかし、一週間に一度休むことは本質的に聖書的なことです。

そして、共に集い礼拝するために集まるのが日曜日であるというのは現在の社会状況にあって理にかなったことです。

安息日についての考え方@初級編

安息日についての考え方A中級編

安息日についての考え方B上級編

 


@日曜日の礼拝に出席する理由

私たちが集う理由は、それは私たちにとって必要だからです。

神様は自分が礼拝されてそれによって気分が良くなるような方ではありません。礼拝する必要があるのは私たちです。

もちろん一人でも神様を礼拝することはできますが、一人でするのとは質が違います。

神様が人を創造されたときに「我々に似るように、我々のかたちに」創造されました。また、「人は一人でいるのは良くない」ともいわれました。もちろんこれらの言葉は夫婦の創造についての御言葉ですが、しかし、確かなことは、父、子、聖霊という複数で一つの神様が、そのかたちに似せて人を造られたということは、私たちが神の形であるためにはコミュニティーが必要なのです。

そこで、重荷を負いあい、建て上げ合うのです。


誰かが言いましたが「日曜日に集うことは親戚の集まりのようなもの」だということです。日々の生活は家族単位で生活しますが、夏と冬に親戚が集まりワイワイするように、私たちは互いに会い交わり主にある喜びを分け合うのです。

また、その機会は互いにミニストリーをする機会でもあります。

教え戒め、建て上げ合うのです。また互いに重荷を負いあいキリストの律法を全うするための場でもあるのです。

ですから、私たちは、日曜日に集うのです。


しかし、そういった中、
心が向かなくても無理にでも礼拝に出席したほうが良い場合があるのも事実です。

ヘブル人への手紙13:15には「賛美はいけにえである」と書いています。いけにえとは犠牲が伴うものです。私たちにとって負担に感じる事、犠牲であることを捧げることも時には必要なのです。

「礼拝出席至上主義」の教会であれば無理したおかげで結果的に助けられたけれど「自由にしていいよ」って感じだと無理しなくてうまくいかなくなったってこともあり得るのです。


デボーション

主の前に安息の時を持ちましょう。

安息の本質は荷物を下ろすことです。礼拝に出席しながらも重荷を負い続けているとしたらそれは、本末転倒なのです。