マーケット・プレイス・ミニストリーとは (12/06/08)

マーケット・プレイス・ミニストリー(MPM)とは一般的には、教会外でビジネスマンなどがその経済力によって教会の働きを支援したり、社会に影響力ある人に伝道して、効果的に福音を伝えるもの。というような理解が主流でした。

ビジネスを畳んで教会に捧げる証や大学を中退して牧師になる証はすばらしいものですが、そうすることがそうしないことよりも値打ちがある事のようにとらえられるとするなら、それは行き過ぎです。

そうなると、MPMで働くことは、献身して牧師になることよりも値打ちが無いというような誤解が生じてしまいます。

「王であり祭司」という御言葉を引用して、「MPMで主に仕えて働く人は王であり、牧師などは祭司です。そのどちらも尊い働きです。」という説明はとても良く励ましを与えますが、たとえそうであっても、「牧師は牧師で伝道牧会に関することや霊的なことだけ」と限定してしまうなら、それはもったいないことです。


神が人に与えた最初の命令は「この地を治める」ことでした。

人が罪を犯したために、「福音を述べ伝えなさい」という命令が一番大切なクリスチャンの役割のようになってしまいましたが、だからといって神の最初の命令が無になってしまったわけではありません。

エペソ1章21節〜23節に(ephe_1_21-23.htm)全てを治めるキリストが教会に与えられた」と書いているのですから、われわれは教会の中と外を区別するのではなく、社会のあらゆる領域を勝ち取っていく必要があるのです。


ただし、教会はこれまでこの分野をあまりうまく扱ってはきませんでした。しかし、「サタン教会の手であり足であるマーケットプレイスミニストリー」という記事にあるように、反面教師としてサタンがどのようにMPMをコントロールしてきたかを理解するなら、MPMが何かがわかります。そして想像力を働かせるなら教会が何をするべきかもわかってくるのです。


追記

このような教えをすると、政治、経済など、社会の領域で影響力を持つことが重要であることについて理解できると思いますが、実際にMPMのフィールドで活躍するのは一般の人の普通の生活を通じてです。

これについては「ライフプレイスミニストリー」をご覧ください。


(追記) 2015年以降私たちはマーケット・プレイス・ミニストリーという用語を以前よりは避けるようになりました。
その理由は「神社油まき清め男の正体:カルト宗教でもなく異常者でもないからこその社会的問題」2015年に金山昌秀という「キリスト教系宗教団体の幹部(報道の記載)」がとりなしの祈りと称して全国の寺院に油をまく事件があり、それと混同されたくないというものもあります。