ライフプレイスミニストリー(LPM)とは何か (22/05/30)

教会という枠を離れて、社会の中に溶け込み、私たちを通じて、人々にキリストを味わっていただき
この地上を神の国の価値観で満たしていく働きです。

※ この用語は私の創作です。以前は、マーケットプレイスミニストリーという言葉を用いておりましたが、有名な人やお金持ちのような特別の人の為のものと言うイメージが付きまとうので、別の言葉を充てることにしたのです。

伝道の働きなのですが、必ずしも直接的に福音を語るとは限りませんし、おそらくイエス様の十字架が云々について語らないでしょう。

今日様々な形の伝道のマニュアルがあります。おそらくそれらは良いものなのでしょうが「信仰告白に導くことの問題点」という記事にあるように、必ずしもそれが良いとは限りません。


それよりも、今持っている家族、友人、職場での人間関係に対して神の御国の文化を相手に体験させ、味あわせてじわじわと救いに導くほうが効果的だと思います。


「直接伝道かそれとも関係づくりか」

これは昔から論議されていた事柄です。 つまり、たとえば、学校の友達や職場の同僚に対して、はっきりと福音を語って自分の立場をはっきりさせるべきなのか、それとも良い証になりじわじわと神の国の価値観を浸透させて行くべきなのかという問題です。

つまり、嫌われても迫害されてもよいので、まっすぐと福音を語るべきか、周りと調和していくべきかという問題です。

これは、長い間論議されてきました。

直接伝道を擁護する人たちの言い分はこうです。

@ 福音を語らなければ、単にいい人だけで終わってしまう。

この意見は確かに理にかなっています。福音を聞かされなければ、救われることはないし、また、歴史的に追うには「じわじわ伝道」では人はめったに救われません。


しかし、このSNSとYouTubeが発達した今、その答えにピリオドが打たれようとしています。

本当に話を聞きたい人はYouTubeチャンネル(※)のタイトルさえ伝えておけば、個人的に福音を聞くことができるからです。

※ なぜかYouTubeには人を引き付ける力があります。ブログを教えてもそれを必ず見るとは限りませんが、YouTubeは高確率で見るようです。それは動画の力ですし、また、誰かのパーソナルな部分を見てみたいという心理が働くからではないかと思います。


今回はどちらが良いかの方法論について述べていますが、最終的な言葉を握っているのは神様です。

※ もちろん、必要に応じてまっすぐ福音を語る必要があります。

必要なタイミングであるにもかかわらず、語ることができないとしたら(語る準備ができたいないとしたら)それはライフプレイスミニストリーの教えのデメリットが現れているということです。

一番良いのは「蝶のように舞いハチのように刺す」の言葉のごとく、LPMとして良い証をたて、関係を作りながら必要な時にまっすぐ福音を語るということです。


参考資料

サタンの教会の手であり足であるマーケットプレイスミニストリー(12/06/13)