使徒と神のエクレシア(12/09/16)

聖書には教会(エクレシア)や使徒(アポストロス)というようなギリシャ語原典のキリスト教用語というものが出てきます。

とはいえ、これらの言葉は当時誰も知らなかった新造語というわけではありません。もともとギリシャ語として普通に使われていた言葉なのです。ですから、教会用語としてではなくギリシャ語の原語からその意味を学ぶときに、本質を理解できるるのです。

エクレシアのギリシャ語の意味は「呼び集められた者」です。それでは何のために集められたのでしょうか? それについて知るために今日はアポストロス(使徒)の元々の意味について見てみましょう。


使徒を意味する「アポストロス」は、アポステロー(遣わす、派遣する)から来た語で、「遣わされた者,代理人、大使」を意味する。当時の社会ではこの語は,王の命令や布告を王の代理・大使として、権威をもって諸民諸族に伝達するために立てられた使者を意味していた。

すなわち、その地をローマ化するために遣わされるエクレシアを指揮するために皇帝から直接任命されたのがアポストロス(使徒)なのです。

それはどのようなものだったのでしょうか?

ローマ帝国は多くの植民地を持っておりました。そこの住民は一定の義務を果たし、制限を受け入れることによってある程度の自由が与えられていました。

ですから、特に辺境の国々はその地の言語、習慣を保ちながら生活しいていたのですが、ローマ帝国としては支配を強めたいと考えておりました。とはゆえそれは武力による支配ではありません。植民地化した今必要なのは武力によって屈服させることではなく彼らの内側からローマに対する敵意を取り去り、忠誠心を与えることなのです。

そのために必要なのは、彼らの文化を親ローマ、ローマ化させることなのです。

そのために遣わされたリーダーが「アポストロス」です。遣わされたといっても子供のお使いではありません。与えられた任務を実行するのに多くのブレーンを必要としています。そのために、呼び集められたグループが「エクレシア」なのです。

そして、その集団は各分野の専門家で成り立っていました。言語、文化、文学、風俗、政治、経済、食物などといった各分野のエキスパートで形成されているのです。

それによって彼らの言語、文化、文学、風俗、食物をローマ化し、親ローマの民衆を作りあげるのです。

たとえば、戦後に日本人の文化を欧米化させるために御用学者が出てきて「米食は頭が悪くなる。」と触れ回ったのは同じ理由で、パン食を根付かせアメリカ文化に親近感を植えつけるためでした。


この教えを理解するなら、神の教会(エクレシア)と使徒の役割がわかり、神がこの地上で何をなさろうとしているのかがよくわかることと思います。

イエスの宣教のはじめの宣言は「神の国が近づいた」(マタイ4章17節、マルコ1章15節)でした。そう、ローマ帝国がエクレシアを遣わして異教の地をローマ化したように神は神のエクレシアをこの地に遣わし神の国化しようとしているのです。

神の国とは、神の支配する地、神の価値観で満たされた場所です。われわれ教会がこの地に遣わされていると言うのは神の国の支配と価値観でこの地で満たすためなのです。

そして主を知る知識、神の栄光が、「海を水が満たすように」(ハバクク2章14節)この地を満たすのです。

それによって、地上の政治、経済、マスコミ、エンターテイメントなどのあらゆる分野を勝ち取るのです。

そのためにこそ使徒が必要であり召集されたブレーンとしてのエクレシアが必要なのです。


このことは何も特別なことではありません。

とりなしの祈りの本質は何か?」という記事に詳しく書いているように、われわれのするべき本来の働きは創世記(1章26-28節)にあるように、この世のあらゆる分野を治めていく働きなのです。

そしてこの「この世のあらゆる分野を治めていく働き」こそ「マーケット・プレイス・ミニストリー(以下MPM)」なのです。とはいえ、このMPMという言葉は誤解を受けています。なぜなら、ただ単に一般社会の中での伝道の為の下準備やビジネスマンがお金儲けで教会に仕える程度にしか考えていない人が多いからです。

そうではなく、教会がとるべき本来の働きなのです。教会はMPMをうまくやってこなかったのでよい模範が少ないかもしれませんが、「サタンの教会の手であり足であるマーケットプレイスミニストリー」という記事にあるようにサタンはこれまでうまくやってきました。ですから、彼らのやり方がどのようなものかを知る必要があるのです。