使徒的働きとは再生産の働き (14/06/14) s
以前、「使徒と使徒的な働き」の中ですこし触れたように、使徒の意味はギリシャ語で文字通り遣わされたもの(APOSTLOS)アポストロス=使徒)です。
(参考の御言葉)
ヨハネ13章16節に「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」
この御言葉で「遣わされたもの」と訳されている部分は文字通り「APOSTLOS」という単語が用いられているのです。
使徒が遣わされたものであることを知ることは実はこれまでの使徒の概念をひっくりかえすほどの大きな意味があります。
なぜなら一般的には、大きな働きをしたり、教会を開拓する人が使徒だと思われているからです。もちろん、その概念は間違いではありませんが、それに限定してしまうなら、神が与えようとされているより広く、深い計画を聞き逃してしまいます。
けれども使徒を「遣わされた人」としてだけではなく「遣わす人」として理解しなければその理解は十分ではありません。
旧約の預言者たちは神から遣わされましたが、彼らは使徒ではありませんでした。(もちろんアポストロスはギリシャ語なので、旧約聖書に使われていないといえばそれまでですが)
なぜなら、使徒は遣わされるだけではなく、その働きが継承されて遣わさなければならないからです。ほとんどの旧約の預言者は、神に遣わされその働きを終えました。ただ、新約時代のキリストの雛形である「エリシャ」を除いては。
使徒の働きは継承されてなんぼのものなのです。
それでは、最初の使徒の働きがどのように継承されていったかについて見てみましょう。
最初の使徒とはイエスキリストです。
(ヘブル3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
彼は、特別なミッションを携えてこの地上に来られました。その最大のミッションとはもちろん十字架の御業、すなわち、人類のあがないの御業です。
もちろん、これについては誰もまねすることはできませんし、一回限りの出来事です。しかし、事実、イエスがしたことは、その福音をのべ伝える働きをの為に私たちを遣わしているのです。
そのために、私たちが十字架の苦しみの全てではないにしても、(マタイ16:26)にあるように背負うべき十字架があることを教えています。
また、「キリストの苦しみの欠けたところ」(コロサイ1:24)を満たすように、私たちを任命されたのです。
(ヨハネ 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
イエスは12弟子を選び(ルカ9:1)、彼らを遣わしましたがそれだけで終わらず、その後、70人を選びました(ルカ10:1)。
イエスが70人の一人ひとりを訓練したわけではないと思います。それをしたのは12弟子だったことでしょう。ここにおいて既に再生産の働きは始まっていたのです。
70人の弟子たちは「遣わされたもの」ではありましたが、彼らを「使徒」と呼ぶことはできません。12使徒と同格の存在になったわけではないのです。
とはいえ「使徒」とは(エペソ4:11)にあるように五役者の一人であり、聖書に書かれた普通の教職者として存在するべきものです。
この十二使徒というのは、一般の人にとってはかなりハードルの高い存在です。ですから、神はパウロを召したのです。彼は「パウロは十二使徒の一人ではない。」という教えにあるように、十二使徒ではありませんが、だからといってその存在意義が小さくなるわけではありません。
彼は、十二使徒から働きを継承する全ての聖徒たちの代表であり、私たちも大きな働きができることを証明するものだからです。
ですから、「使徒的働き」とは「再生産する働き」です。もうすこし突っ込んで考えるなら、私たちが行う働きが「使徒的」かどうかの判断基準は、「再生産可能な働きを行うかどうか」にかかっているのです。
働きの大小にかかっているのではありません。
私の家族は3歳の娘を含めてみな三ヶ国語を話します。それはそのように育てているからです。しかし、私はそれだけでは満足しません。再生産されなければならないのです。
それはどのようにしてなされるのか?自分の子供が成長したときにその子供たちを三ヶ国語で育てることでしょうか?いえ、違います。もちろん、それを願っていますが、それはあまりにも小さく限定された再生産です。
私の願いは子供たちを含めた教会の全てのメンバーが英語を話し、ある青年たちにはスペイン語を教えて彼らが(たとえばメキシコの聖書学校で学ぶほどに)スペイン語を理解できるようになることです。
その過程で継承されていくことは語学の能力やビジョンについてだけではありません。さまざまな意味において使徒的に動いていくことに対するビジョンが継承されていくのです。
CFNJのサマースクールで家族についての教えをしましたが、その中のひとつが「使徒的家族(YouTube)」です。