使徒と使徒的な働き

この文章を通じて使徒とは何か、どうして使徒的な働きが必要なのかを説明いたします。

以前書いた「使徒について」と合わせてお読みください。


使徒とは(1)

(エペソ2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

ここに使徒と預言者が土台だと書いています。それは第一義的には、初代教会の使徒、預言者のことですが、それだけに限定してしまってはいけません、もし限定してしまうなら「聖霊の賜物は初代教会で終わってしまった。」というわなに陥ってしまうことでしょう。それにより豊かな霊的な栄養をとることができなくなってしまいます。

聖書の言葉は全て、偉大なる神の人が神からレーマ(神の言葉)を受け取り、それを書き記したものです。そして、その書き記された言葉を読むときに、その言葉はロゴスと呼ばれています。

神が語った言葉そのものはレーマですが、今日私達がそれを受け取るときにはロゴスと呼ばれる書き記された古い言葉なのです。


もし、今日、使徒、預言者がいないとしたら、教会を立てあげるのに、レーマ抜きで立てあげねばならなくなってしまいます。こう言うとこのような反論があるかもしれません。「私はレーマがなくなったとは言っていない。今日でも、神は個人的に語りかけてくださる。」と。

それは確かにそうです。しかしその見解は十分ではありません。個人に語られるレーマは、諸教会全体を導くのに、つまり教会の土台としては十分ではありません。そうするとエペソ2章20節に書かれたような豊かな教会を建て上げることは難しいことでしょう。

もし牧師だけで教会を建て上げているとしたなら、その牧師は牧師という肩書きを持ちながらも五役者のその他の油注ぎを持っているからなのでしょう。

(参考:牧師とは何か


神の業は回復の業です。アダムが罪を犯して以来、一貫してそうです。

旧約の預言者や初代教会の使徒、預言者に与えられたレーマは、今日ロゴスとなっており、重要な信仰の土台であり、それから外れて新しい啓示を神が与える事はありませんが、私達には新鮮なレーマが必要なのです。

(マタイ4:4「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』

「神の口から出る一つ一つのことば」の「ことば」がロゴスではなくレーマであることに注目してください。私達はクリスチャン個人として、信仰生活を維持するために、レーマが必要ですが、教会も同様に、レーマが必要なのです。

教会を建て上げるためには一クリスチャンに個人に神が語られる言葉ではなく、五役者、特に、使徒、預言者を通じて神は語ります。


使徒とは牧師の牧師、あるいはたくさん教会を開拓した人というイメージを持っている人がいますがそれは使徒が持つ一面に過ぎません。使徒の特徴、役割はさまざまなものがありますが今回は以下の3つの点について分かち合いたいと思います。

(A)遣わされたもの(B)教会の土台を据える(C)解釈し調整を与える。戦略を与える。(D)整合を取る。


(A)遣わされたもの

ヨハネ13章16節に「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」

ここに遣わされた者という言葉がありますが、ギリシャ語では(APOSTLOS)アポストロス=使徒)と書いてあります。すなわち、使徒という言葉自体が「遣わされたもの」という意味なのです。

使徒が遣わされたものであることを知ることは実はこれまでの使徒の概念をひっくりかえすほどの大きな意味があるのです。

詳しくは「使徒=遣わされたもの」の教えをご覧ください。


(B)土台をすえる

教会には2つの土台があることを知らねばなりません。多くの人は土台はひとつだけだと思っています。しかしそれが混乱の元なのです。

これについては以前「教会の二つの土台」で説明しましたのでまずそちらをご覧ください。

使徒的な土台をわかりやすい言い方で言うなら「やり方の違い」です。同じ目的を達成するにしても、さまざまな方法があり、その方法はどちらもよいものであっても混ぜるとあまり好くないこともあります。

それについてのお好み焼きの作り方のたとえ

私は教会の牧師です。自分の教会のメンバーが自主的にいろいろ学ぶことを願っており、そのためにどこかのセミナーに出席したり、新しい方法を学ぶことに対して何の心配もしていません。

けれどもそれは自分の所属する教会の使徒的土台と現在与えられている戦略を理解した上でのことであると思っています。

なぜなら、どのような良い教えや戦略であっても、土台の上に立て上げられるのでなければ、それから切り離されるならあまり効果的ではないどころか時には混乱をもたらすからです。

土台の上に建て上げられると言うのは、たとえば伝道一つとってもそうです。

私達の教会では「インフォユース」という方法によって若者に性の正しい知識を伝えつつ伝道する働きをしています。これは「どういう働きだ?」という問いに一言で答えるなら「伝道」ですが。シンディージェイコブズ師が語っておられた「中絶の霊に対抗する」という意味を持って当教会が持っている「霊的戦い」という機能にのっとったものです。

また、未信者の子供の為のプログラムを持っていますがこれは「家族の回復」というビジョンで家庭を破壊しようとしているグ口ーバリズムに対するというというとりなし的な意図を含めて持っています。

聖徒の時代にふさわしく、教会のメンバーが持っている重荷やビジョンが発揮されるときが来ています。それは教会がこれまでしていた働きと関係がないように見えても、使徒的土台という考えにのっとって、その上に建て上げていくという考えで整合を取っていくことによってさらに有効に一人一人の賜物が発揮されていくのです。

ですから、教会のビジョンというものを単なる現在やっている事柄や重荷に限定するのではなく、使徒的な土台という大きな風呂敷の中で考えるなら、教会のビジョンから外れた信徒の重荷や賜物というものはありえず、全ての人がキリストの体を建て上げる為に用いられることができるのです。


(C)解釈し調整を与える。戦略を与える。

80年代に預言者というものが回復し多くの預言者と呼ばれる者達が立ち上がりました。しかし、

しかし預言の賜物を信徒のコントロールに使うグループが台頭したりするなど、混乱があったことは確かです。

また、たとえ正しい心を持っている預言者がよい動機で預言をしたとしてもそれが外れてしまうこともありました。このような問題を解決するのにはどうすればよいのでしょうか。

預言者や預言的賜物を持っている人の能力を十分発揮させるためには、その言葉に対する解釈と方向付けが必要なのです。そしてそれを行うのが使徒の役割です。

日本においても80年代から早くも預言運動の流れが入ってきました。預言的賜物の取り扱いに関してよく見られる問題は、的確な預言的賜物を持っている人が自分を「預言者」だと思い込んでしまったり、周りの人たち(時には牧師であっても)も必要以上にその人に権威を与えてしまう事にあります。預言の賜物を持っていることと預言者としての召しを持っているかは別の問題です。

また、たとえ預言者であっても、その地域教会の権威(多くの場合は牧師)の覆いの下にいなければなりません。

なぜなら預言は解釈され、整合がとられなければならないからです。預言者がたとえ正確に見たり主から聞いたとしても、それだけではいけないのです。それを適切に解釈する必要があります。

使徒の働きの出来事を思い出してください。21章においてアガボという預言者が主からの幻を語りました。(使徒21章11節〜14節

預言者がパウロが縛られる幻を見たので周りの人はそれは不吉を示していると思い、パウロを止めようとしました。しかしそれは御心ではありませんでした。ではこの預言者は間違った預言を下のでしょうか?

これは預言者にありがちな問題です。たとえ神から見たり聞いたりしても、その解釈が間違っていたら間違った結論を出してしまいます。ですから、聖書の言葉や神からの言葉を参考にしつつ、それらを整合して戦略を立てる「使徒」という存在が必要なのです。

今日、多くの預言者だけでなく教師も活躍しています。神から良い戦略を受けたからといってそれが世界中のどこででも通用するとは限りません。整合し組み立てなければなりません。

また、真実の教えであっても、それをどのように、どのような順序で提示していくかを組み立てなければ成らないのです。

ですから五役者の機能が十分に発揮されるためには使徒が必要なのです。


(D)整合をとる

今日SIHOP.NETが整合を取ろうとしている最も大きな事柄は、「父の時代」というこれまでとまったく異なる時代に私達はいるということを認識しこれまで理解してきたことを再解釈し再構築することにあります。

というのも、これまで繁栄や福音宣教を優先するために黙認されてきたことが山ほどあるからです。

たとえばこれまでの教えでは「お金は中立的なもので用い方によって良いものにも悪いものにもなる。」と教えられてきました。個人や会社、教会が収入を得て消費するというレベルの話においては今でももちろんそのとおりです。

しかし、これまで見てきたように「通貨とは何か」という視点に立ってみるなら「中立的なもの」という一言では済ませれない問題を含んでいることがわかります。

この問題に関する参考リンクを見られるならその意味がわかっていただけると思います。(これらを見るにはログインが必要です)

お金(金融)のシステムとは何か?

お金の歴史

黙示録の大淫婦とは何か


最後に

いずれにしても、使徒の油注ぎは、これからの時代にますます必要なものです。

良く聞かれる言葉の中に「使徒の存在を認めるが自分で自分のことを使徒と言うのはおかしい」というものがあります。確かに使徒は「周りに認められてなるものである。」という言葉には私は賛成です。

けれども、使徒という肩書きを極端に嫌う事の裏側に「使徒として認めたくない」というものがあるならそれは行き過ぎているといえるでしょう。

なぜなら使徒を含めて「五役者」であることの条件のひとつは「他の五役者を、そのものとして認める」ということが含まれているからです。

聖書にはこうかかれています。「預言者を預言者として受け入れるなら預言者の報いを受ける」(マタイ10:41)

この御言葉は預言について書いていますが、他の事柄についても同様です。使徒である他の人を使徒として認めないならその人は(使徒に限らず五役者のどの召しであったとしても)自分が受けている召しを否定することになるのです。

そうなってしまうなら、21世紀の父の時代どころか五役者不在の20世紀前半の「聖霊の時代」にまで逆戻りしてしまいます。

確かに使徒も間違いをおかしますし、もしかしたら偽使徒もいるかもしれません。だからといって神が与えた良いものまですべて捨ててしまわないように注意したいものです。