父の時代(聖霊、子、父という時代区分)s 2009/4/10
われらの神は父なる神、子なる神、聖霊の三つでひとつです。それを三位一体という言葉で表しています。聖書には三位一体という言葉は出てきません。その用語はもともと4世紀に異端的教理から教会を守るために作られたものだからです。
その用語は教会を異端的思想から守るのに役立ちましたが、それ以後、神との個人的な交わりや啓示なしで「父、子、聖霊」をただ神としてしまった結果、神のダイナミックな存在を神学的な枠組みの中に押しこめてしまう場面もあったのも事実です。
父、子、聖霊の3つの存在をひとつであることにこだわるあまりにバランスを書いてしまう場合もあります。カトリックの教義でマリアや聖人を人と神との仲介者としてしまったのは、「父、子、聖霊の3つを神として高く上げてしまい、人の内に住むパラクレートス(重荷を負う方、弁護者)としての聖霊や、友なるイエス、教会の花婿なるイエスといった概念が乏しくなり、あまりにも遠い存在としすぎてしまった為に新たな仲介者を必要としたからだ。」と指摘する神学者もいます。
しかし、20世紀に入り、神は「父、子、聖霊」の本来あるべき姿をダイナミックな形で示され始めました。終末の時代区分を、聖霊の時代、子の時代、父の時代の三つに分けることができると思います。
20世紀初頭に異言を伴う聖霊のバプテスマのムーブメントが起こりました。
聖霊のバプテスマは使徒の働き1章8節に見られるように「全世界に福音をのべ伝える原動力」となりました。 聖霊の九つの賜物が復活しました。中でも癒しの賜物の傾注は顕著で爆発的な伝道がなされペンテコステムーブメントは同時発生的に世界に広がりました。
これが第一番目の聖霊の時代です。
子の時代は1950年代ごろからです。エペソ人への手紙4章11節に子である「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった。」とあるように五役者が復活したのです。
特に顕著なのは、預言者と使徒と呼ばれる存在です。
ビル・ハモン師の著書「聖徒の日」によりますと五役者の回復は10年ごとにひとつづつなされていきました。すなわち1950年には癒しと解放の大衆伝道がオーラル・ロバーツなどによってなされました。
1960年代の牧師、1970年代の教師の回復がありました。
(牧師、教師は五役者の回復以前からあったと思われるかもしれません。五役者としての牧師についての解説はこちら)
そういった回復の過程を経て、1980年代には預言者のミニストリーが教会内で正しく認められるようになりました。しかし、それでも預言者が有効に機能するためには1990年代の使徒の回復まで待たねばなりませんでした。
というのも、預言者の活躍は教会にダイナミックな力をもたらしましたが、時には預言者が(たとえその預言が正しくても)そのタイミングや戦略なしにただ、神から聴いた言葉をそのまま語っただけであるなら混乱が生じてしまった事があったのも事実です。
預言は整合され、タイミングを見計らって公にされる必要があるのです。
また、使徒が不在の中では教会内で「預言的賜物を持っている人」(すなわち聖霊の賜物としての預言)を預言者の地位に祭り上げてしまい混乱が生じてしまいました。そういったことを防ぐためには牧師が(たとえ五役者の使徒でなかったとしても)使徒としての役割を果たす必要があるのです。
1990年代に回復した使徒の機能は「整え」「戦略」「霊的権威」です。エペソ人への手紙12章に聖徒達を整えてとありますが、この整えは漁師が網を「繕う」というのと同じ言葉です。
21世紀にはいる頃、父の時代に入りました。これは3つ目の時代です。
聖霊の時代(賜物)、子の時代(五役者)の流れを継承していますが、それまでの教会史の中から見ても特別な時代です。
これまで見てきたように20世紀に入ってから「子」、「聖霊」に対するダイナミックな理解が与えられてきましたが、父の時代はさらに特別です。これは終末を意識した最終ランナーの時代だからです。
親子の関係、メンターと弟子の関係
(マラキ4:5-6)にあるように、親子の和解というものがひとつのテーマとなります。確かにキリスト教界の中でそのような動きが見られます。
それとは別に、真の弟子訓練のシステムが回復します。
今日多くのミニスターの中には霊的覆いなしに働きをしているものが大勢います。ある組織や教団には属しているかもしれませんが、「メンターリング」と呼ばれる関係はまれです。
しかし、親が子に接するように導いていくメンタリングの動きが今日静かに起こっています。
関連記事「メンタリング」 (16/05/20追加)
使徒の回復によってそれまでのミニストリーが整合されましたが、それは主にミニストリーの整合であり、それまでのキリスト教界が持つ世界観に基づいたものにすぎません。
しかし、この父の時代に行われる「整合」は既存のキリスト教の世界観の枠を超えたものであり、「植民地支配」のように「それを通じて福音が前進したんだからいいじゃないか」という言葉で見過ごされてきた事柄にもスポットライトがあてられます。
(黙示録21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
この「すべてを新しくする」という言葉の中には、整合する、つじつまを合わせるという意味もあるように思います。
すなわち、この時代になされる整合のひとつは、これまでの偏った知識や、世界観に基づいたもの、矛盾を抱えながらも、神の国の成長が優先されるが為に見逃されていたものに対しても考慮されるということです。
すなわち「真実、事実、現状」が考慮されるということです。父の時代において使徒的権威が発揮されるまである程度無視することが神によって容認されていたことの整合がとられるのです。(抽象的な話なのでよく理解できないかもしれませんが、この問題についての解説は準備中です。)
この御言葉はマラキ書4章の言葉とかね合わせるときに、回復の時代が父の時代だと言うことがわかります。
(マラキ4:5-6) 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
私達は災害や政変を恐れてはなりません。黙示録3章10節の「地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」という言葉を信頼するべきです。
もちろん、これまで語ってきたように、主を見上げてさえいれば現状に目を留めなくても良いといっているのではありません。ただこれらの警告を読むときに感じることは、これまで教会の世界観とこの世の「真実究明をされている方々」との意識の溝が狭まっているように感じます。
こういった意識の変化は父の時代のひとつのしるしのように感じました。
この時代はビル・ハモン師が書いているように。聖徒(すなわち普通のクリスチャン)が外に出て行き神の業を行う時代です。
ですから、私達が整えられ、この時代になすべきことを悟っていくためにも、私達は父なる神を単なる三位一体の一つの位格としてではなく、個人的な交わりを通じてまことの父として彼を知る必要があるのです。