メンタリング今日神が光を当てておられるありかた

21世紀は父の時代です。これは単なる標語ではありません。教会形成や次世代の養成においてもいえることです。そのひとつの表れは今日神が光を当てておられる「メンタリング」と呼ばれる関係です。

これはメンター(導き手)とメンティあるいはプロテジェ(導かれる人)との関係で、その意味は「Wikipediaの解説」にある通りですが、そういった解説は会社などの組織における、目的達成のための手段の一つとしてのメンタリングなので、その説明だけではうまく理解できないことでしょう。

今回の記事はポイント先に羅列していきます。このことを踏まえて今回の記事を読んでくださればと思います。


ポイントから見るメンタリング

1)メンタリングとは個人的な関係であり組織、団体の問題ではない。

2)メンターから声をかけて始まることが多い。

3)同じ教会や教団における関係とは限らず、むしろ違うことのほうが多い。

4)したがってメンターにとって自分の教会形成のための弟子作りとは異なり、利益を求めない関係である。(つまり、育て上げて将来自分の働きを引き継いでもらおうというものではない。もちろんそうなる場合もある。)

5)直接利益を得れない関係にエネルギーを注ぐわけなので、相手が誰でも良いわけではなく、導きを求め相手を絞っていく必要である

6)利益を求めない関係だからこそ、相手をコントロールする必要も無いので理想的な指導ができるともいえる。

7)誰とどのように導かれるかわからないので、常々、教会、教団の関係なく誰かと共に食事をしたり、交わるといった関係を広く持つことは良いことである。

8)(年少者から近づくのは難しいだろうから)多くの場合年長者の方からメンターとなるべき声をかけていく。

8)そういった中で、メンターとメンタリングを受ける側の双方が相手を選び合うことによって関係が成立していく。

9)これは互いの信頼関係で成り立っています。

10)メンタリングの基本は「交わり」と「関係」なので、食事をしたり霊的な活動には見えないことを通じても行われる。

11)必ずしも聖書を開いて御言葉の学びをしなければならないわけではない。

12)カウンセリングは問題が起こったときに相談に乗る非常事態のものだけど、メンタリングは普段からの霊的なメンテナンスである。

13)メンターの存在が貴重な理由のひとつは、誰もその人に尋ねないような内面についての質問を投げかけることがあることにある。

14)何かを教えるというよりは対話を通じて「気づき」を与えることによって導いていくことが多い。

15)メンターは相手の内側にある宝を引き出させる。

16)関係を通じてインパーテーションが与えられる。


記事本文

まず、第一にこれは関係による関係・・・つまり、組織や形だけのものではないということです。

「霊的覆い」が大切であることは良く語られますが、本当の意味で良い霊的覆いを体験している牧師はかなり少数派です。教団や組織としての形としての覆いがあったとしても、実際にケアを受けているとは限りません。個人的に密な関係を持っているとも限りません。

教団などの霊的覆いが支配的であったり、害である場合も多いからです。


私が語っているメンタリングとはそのようなものではありません。もっと、個人的な関係です。また、同じ教会、同じ教団とも限りません。むしろ違う教団の人と損得勘定なしに始まることのほうが多いのです。

多くの場合、一緒に食事をしたり、それほど霊的な活動でないものを通じて起こることも多いのです。

ピーター・ツカヒラの著書の中に彼がデニス・リンゼイから食事に招かれ交わりを持つ中で元気付けられた話が出てきます。その交わりとは食事を共にすることであったり、特に霊的とは言えない活動でしたがその交わりの中に「神の国の文化についての貴重な真理」があったと記しています。


「父性」の回復と「霊的形成」という著書を持つ豊田信行師は2015年のCFNJ聖書学院の授業の中で「メンタリング」について語りました。彼は「雑誌・船の右側」のインタビューで、メンターの特徴は「自分から追いかけてくる」ことであり、誰も聞かないような内面についての質問をすることである。」と語っています。


■ 体験している人はごく少数派である。

私が書いているこの記事に、どれほど多くの人が共感しているかはわかりません。こればかりは体験したことが無い人が多いのでそのメリットも多くの人は知りません。

特に、これまでの教会形成というのは、牧師になるというのはある種、牧会という大海原に突然投げ出されることによって始まるケースも多く見られました。

聖霊派の教会の中には、教会を追い出されたりして泣く泣く単立教会の牧師として立てられた人がいます。宣教師が開拓した教会でも宣教師が帰国して投げ出されるようにして働きを引き継いだ牧師がいます。

それを見ても周りの牧師たちは「神の恵みがあるから大丈夫だ。」とか「私もそのようにして学んだ。」というぐらいで何もしないことがよく見られました。

きちんとした教団であっても、組織としてではなく人間関係としてのケアがあったとは限りません。人間関係があったとしても「問題があったら来な さい。相談に乗りますよ」 という態度ではなく自分から 追いかけてくれる人はまれでしょう。

また、その必要性を年長の牧師が理解してたとしても、自分自身がメンタリングを受ける経験がなければ、どのように進めていけばよいのか、どこまで足を踏み入れてよいのかはなかなか理解できず、中途半端なものになってしまうことも多いのです。

そのようなわけで、メンタリングのよさを体験している人は少数なので、その必要性を理解している人は少ないのです。


そのようなわけで、

単立教会で指導者を持たないで牧会をしている牧師が、どこかの団体に霊的覆いを求めたり、ましてやメンターを求めるケースはかなりまれでしょう。

メンターとなってくれそうな器が周りにいないという理由だけでなく、それ以上に多いのは、(これまで自由にやってきたので)覆いやメンターを持ちたくなりというケースが見られる。それまで自由にやってきた人が誰かの指導の下に入るというのは容易なことではありません。

しかし、それでも、あえて言いたいことは、すべての牧会者は指導者を必要としています。「イエスキリストが主任牧師で、私は副牧師である」と言っている教会があったとしても、実際にそのような運営はできないでしょうし、また聖書的でもありません。


聖書的な根拠は次のようなものです。

第2テモテ2:1〜2) 私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

(マタイ 28:18〜20) あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

キリストの命令は弟子を作ることです。会堂建築や職業訓練のような弟子作りを否定するわけではありませんが、第一の命令を第一にしていくという姿勢を忘れてはなりません。

そのようなわけで、メンター(少なくとも霊的覆い)を持たないでミニストリーをすることは本来聖書的ではありません。また、再生産のサイクルを生み出す活動をしていく必要があります。

新約聖書の記述はすべてそのような関係を通じて神の働きがなされることを前提に書いているのです。

もっとも、聖書的でないといえば、今日の教会のスタイルも本来のスタイルではありません。使徒の働きの時代は使徒が巡回し、長老が監督として牧師の役割を果たしていました。ですから聖書的かどうか云々を言い出したらきりがありませんし、絶対そうでなければならないと言っているわけではありません。神も今の現状を通じて福音宣教がなされることを認めているわけですから、教会の構造が変えられなければならないといっているわけではありません。

それでも、もし可能であるなら聖書の原則に立ち返る姿勢は必要ですし、時に、今日神がその方向に光を当てておられるのでしたらなおさらです。以前は神に容認されていても今では違うこともあるのですから。


私たちは終末の時代である「父の時代」に生きているのですから、これまでの殻を打ち破っていく必要があります。

いきなり、「メンターリングしてあげましょう。」とか「メンターになってください」などと言う必要はありません。まず食事をするなどといったできることから始めていけばよいのです。メンタリングとは交わりの関係だからです。

参考記事「父の時代

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