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三位一体は異端から教会を守るために定められた教理 (25/05/18) 聖書には三位一体という言葉は出てきません。 しかし、そのコンセプトは重要です。なぜなら「三位一体は完全なる神の形」という記事にあるように、神ご自身の完全さの表れだからです。 しかし、私自身はこの用語を必要最小限しか用いません。 理由の一つは、一つの言葉に固執するときに、本来聖書が言っている以上のあるイメージが定められてしまい、別の方向に向かってしま可能性があるからです。 つまり、仲介者、寄り添うパラクレトスとしてのキリストや弱い私たちの祈りを助けてくださる聖霊という視点を失わせて、ただ、神としてあがめたてまつってしまう危険があるのです。 そうなるときに、「マリアに祈るカトリックの異端的な考えの原因の一つは三位一体の教えによる」という記事にあるような問題を生じさせてしまうかもしれません。 もう一つの理由は、三位一体という用語は、元々異端的教理から教会を守るために生じたと考えているからです。 新約聖書からは、キリストが神であることを読み取ることはほとんどできません。 そのようなわけで、キリストの神聖を認めない異端が生じているわけですが、その間違った教えから教会が守られるために三位一体の教理が生まれたのです。 そのようなわけで、私たちが守るべきものは、三位一体という言葉ではありませんし、その教理でもありません。 教理としてまとまっているわけではないので、うまく説明できませんが、私たちが守るべきことは、聖書言うことろのキリストや聖霊の位置づけなのです。 しかし、三位一体という言葉にまとめようとしるときに、(実際、論理的に説明できるものでもありませんので)その内容について深く考えることもなく、ただ、神聖にして犯すべからずの存在にしてしまう危険があるのです。 大切なのはその名を守ることではなく、その交わりの中に入ること。 三位一体という言葉はもちろん出てきませんが聖書の中で「父、子、聖霊」という言葉が登場するのは、マタイ28章です。 ここで日本語の翻訳では「父、子、聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と書かれているので、多くの教会ではそののようにしておりますが、「洗礼とは父、子、聖霊の交わりの中に加わること」という記事にあるように、その名の交わりの中に入ることなのです。 そのことが分かるなら、単に、教理として守るだけの対象でないことが分かります。