召しと主の備え 来日と成長 チャレンジと成熟
1章、召し
1983年に家族そろってガルサ一家はイエスキリストを救い主として受け入れ、救われました。次の年にロドルフォが建築業の業界紙を読んでいた時の事です。その中で日本の経済について論説があり、その内容は産業新聞の記事と言うよりは日本の文化について、特に宗教事情について報告されていました。そこで日本人の宗教の内99%が神道と仏教でクリスチャンは0.5%しかいないという記事を目にしたのです。その時ロドルフォは言いようの無い嘆きと日本人に対する深いあわれみを感じました。次の日の祈り会で国をひとつ選んで祈る機会があったので、その時以来日本の為に熱心に祈り始めました。
1985年、集会の賛美の只中で幻を見ました。それは今にも大きな波に飲まれそうな日本人女性が「早く助けてください」と懇願している夢でした。
また2人の日本人が黒い服を着てベンチに座っているときに突然大きな波がやってきてその2人を海に飲みこんでしまった夢を見ました。
彼らが日本の為に祈り続けている頃のある日の事です。まだ幼かった娘のジュディーがナショナルジオグラフィックという雑誌に掲載された日本の少女の写真を見て「こんな子供の為に福音を伝えたい」と泣きながら両親に伝えました。両親はそれを見て驚きました、神様はいろいろな方法で日本に行くビジョンを与えたのです。
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彼らの母教会であるアミスタ・デ・プエブラのほとんどの人はガルサ夫妻が宣教師としてメキシコを出ることを望んでいませんでした。そこで彼らは非常に愛されていたからです。日本への召しを確信していましたが、信頼していた友人からも「日本は霊的な砂漠だ、そんなところに行ってどうするんだ」と落胆の言葉をかけられた事もありました。しかしそれでも日本に対する愛はさらに強くなっていきました。
ロドルフォが日本に来るための神様からのしるしの一つが、1989年の秋に行われたアミスタ・デ・プエブラの祈り会の時に起こりました。1人の男性がロドルフォのところに近づいて来てこういいました。「なんだか良くわからないが、あなたについて二つの変な夢を見ました。一つの夢の中で、あなたが木の上にいて、その木の下には大きな黒い雄牛があなたを殺そうとして待っていたのです。でもあなたは降りてきたときに、その雄牛はあなたに害を与えず、あなたは東の地平線に向かって水田を横切って歩いていくんです。もう一つの夢は、あなたが大勢の人達の前でメッセージをしていたのですが、あなたはきちんと背広を着てネクタイを締めていたのにも関わらず何と靴を履いていなかったのです。」あなたが靴を履いていないのを見て私は笑ってしまいました。ロドルフォはすぐに、神様が彼を召しているということがわかりました。この男性は日本の習慣も彼の計画を知らずにこう語ったのでした。同じ日に、後になってロドルフォは創世記41:32のみことばを見つけました。そして、その男性が語っていたことを確認するものとなりました。「 夢が二度くり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。」
2章、主の備え
留美子は高校の教師として3年間働いていました。しかし1987年にロータリークラブから1年分の奨学金を受けるチャンスがあったので、オハイオ州アセンズという町のオハイオ大学に留学しました。それからわずか2ヶ月後にイエスキリストを心に受け入れ救われました。その後、日本語を教えながら学ぶことによって現地で奨学金を受ける道が開かれたので、次の年もアメリカに滞在し3年目の1990年は修士過程終了後も日本語の教師としてアメリカに残り、留学生の為の伝道グループの奉仕に携わっていました。
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1990年夏、すなわち日本に住み始める1年前に、ガルサ夫妻が日本に宣教に来る為の偵察として1ヶ月の間8つの都市を巡りました。
その頃、日本に一時帰国していた留美子は札幌のある教会に行った時に、CFAのゲストスピーカーの通訳の奉仕を頼まれました。そのゲストスピーカーはガルサ夫妻でした。
留美子はガルサ夫妻との出会いを通して信仰の歩みが変えられました。また、集会の中で彼女は聖霊のバプテスマを受けました。アメリカヘ戻って後、聖霊の炎に燃やされ、以前にも増して人々にイエス様の愛をわかちあうようになりました。
ガルサ夫妻はメキシコに帰ってから、訪れた8つの都市のどの町へ行くべきか、祈り始めました。すると、彼らは、留美子から1991年夏に札幌へ帰る決心をした、という手紙を受け取りました。彼らは、もし札幌に行くことになったら彼女に通訳をしてもらいたいと考えていたので、この事は、ガルサ夫妻にとっては主が彼らを札幌に遣わすという確認の一つとなったのです。
1990年11月、留美子アメリカヘ戻って3か月後、友人を尋ねてアメリカに遊びにきている好弘に出会いました。その時に好弘は初めて福音を聞きました。しかし彼は興味を示しませんでした。
留美子はその後、メキシコに戻ったガルサ夫妻に手紙を書きました。その手紙には祈りのリクエストとして、まだ救われていない日本人の名前も添えてあり、その中に好弘の名前もありました。すなわちガルサ夫妻はメキシコにいる時から知らない内に将来の彼の同労者であり副牧師になる人の救いの為に祈る事になったのです。
1991年3月に、アミスタ・デ・プエブラで宣教大会があり、その中のある集会で、説教者が宣教の召しを持っている人へ招きをしました。そこで日本の宣教へ再献身の誓いをしたガルサ夫妻はその同時刻に教会のオフィスに届いたCFAのグリコ先生からFAXを受け取り、札幌に来るのなら全ての準備は整っているとの連絡を受けたのです。その他、数多くの確認によって札幌への確信が強まっていきました。