召しと主の備え 来日と成長 チャレンジと成熟
3章、来日
1991年8月、ガルサ家族は当初2年間の予定で家族と共に札幌にやってきました。
その2週間後に留美子も札幌に帰国しました。なかなか機会が無く、すぐにガルサ夫妻に会うことはできませんでしたが、ある日曜日の午後、彼らが開拓村に行く事になっているのを知り、そこで会うことになりました。そして1年ぶりにガルサ夫妻と留美子は再会し、子供達と留美子も初めて会いました。開拓村での再会はこれから始まる教会開拓を予告しているようでした。
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ガルザ牧師は、札幌の聖書学校で9月から教え始められ、留美子は、彼の通訳者としてCFAで通訳を始めることになりました。
留美子はアメリカから帰国後、幾つかの教会に通いながらどの教会に属するべきか迷っていました。アメリカの牧師に教会の状況を説明して、どちらの教会に集うべきでしょうかと相談しても、どちらも良いとは言わず、ただ「新しい事を始めなさい」と励ますだけでした。でも自分一人の力で何かを始めれるはずもなく迷っていました。
1991年10月、主の導きを感じたガルサ夫妻は家庭を開放し教会を始めることになりました。かねてから所属すべき教会を探していた留美子が最初のメンバーとして加わり、札幌クリスチャングループはガルサ家で、ロドルフォ、アドリアナ、留美子、ルディ、ジュディ、ディビッドの6人で始まりました。まだ英語がよくわからないディビッドの為にメッセージはスペイン語交じりの英語によるものでした。
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札幌での宣教の働きによって救われた最初の人はロシア系のユダヤ人でした。かねてからイスラエルを祝福する事が教会の祝福につながると考えていたロドルフォにとってこれは預言的な出来事となり、数年後、CFAの学院長に就任した後、エベネゼル緊急基金を通じてロシアに住むユダヤ人を祝福する働きを始めました。
1991年11月、書店で見つけた1冊のクリスチャンの本をきっかけに好弘は大阪の教会に行くようになり、12月にイエスキリストを心に受け入れました。またその次の日、創世記12章から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」というみ言葉を受けました。
1992年春、信仰の先輩として留美子と連絡をとっていた好弘は北海道とスペイン語を話す牧師に興味があったので、札幌に遊びに来ました。初対面のガルサ夫妻の家庭に11日間お世話になり、あたたかい家庭とガルサ夫妻の人柄を気に入りました。
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1992年夏、教会の名前はそれまで特に決まっていませんでしたが、教会でキャンプを企画した際に、申込用紙に団体名を記入せねばならず、札幌にあるクリスチャンの集まりなので仮称として「札幌クリスチャングループ」と記入しました。そしてそれがそのまま教会名となりました。
1992年夏に札幌に好弘が再び遊びにきました。その時に好弘は主が札幌に導いている事を感じ祈り始めました。大阪に帰りのフェリーでその導きが本当なら主に確認として家族が救われるようにと祈ったところ。義姉、母、そして祖父が5ヶ月以内に次々とイエス様を受け入れました。
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1992年夏に札幌に好弘が再び遊びにきました。その時に好弘は主が札幌に導いている事を感じ祈り始めました。大阪に帰りのフェリーでその導きが本当なら主に確認として家族が救われるようにと祈ったところ。義姉、母、そして祖父が5ヶ月以内に次々とイエス様を受け入れました。
1992年9月9日(水)午前10時から、毎週女性集会が始まりました。
1993年4月に好弘は大阪から札幌に引っ越し、アパートを借りて住み始めました。
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4章、成長
1993年5月、日曜日の集会には20人以上の人が集まるようになり、ガルサ夫妻の居間での集会場所は狭くなってしまいました。以前、試験的に集会をした事があるHIS(北海道インターナショナルスクール)を使えたら良いのだが、と思い巡らせていたのですが、そんな大胆なお願いを(彼がクリスチャンだからといって)マクレーン校長に話すことなどとても出来ませんでした。そんなある日、メキシコから送られたカセットのメッセージをロドルフォが聞いていたら、その説教者はこう語りました。「私達には倒すべき巨人がいる。」その巨人とは、ロドルフォにとっては、集会のための新しい場所であり、また資金不足でした。ロドルフォはそのメッセージを聞きながらそれはまさに自分の事だと実感していました。そのメッセンジャーは続けてこう語りました。「もしあなたがたに建物が必要なら、その巨人をも倒す事が出来る。」このメッセージを聞いて、主が語っておられる事を知ったロドルフォはマクレーン校長先生に会いに行きました。すると、何も言っていないのに彼のほうから「教会はどうですか?」と聞いてきたのです。それで「祝福を受けて少しづつ成長しているのですがなにぶん場所が狭くなって、、」と答えたところ、彼の方から「それなら この場所を使ってください。」と言って、体育館、教室、ピアノ、椅子、駐車場を見せてくれました。こうして、彼らが祈ってきたこと全てが実現したのです。
北海道インターナショナルスクール体育館での集会
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1994年好弘がロドルフォと共にメキシコを訪問する。
1994年2月マリベルが来日
アミスタ・デ・プエブラのピアニストのマリベルが賛美の奉仕の為に半年間来日しました。それまで教会に楽器はピアノとリズム用タンバリンしかなかったのですがピアノが加わり、彼女は幾人かにピアノを教えました。また賛美についての教え、賛美シリーズ3−7の録音、OHPシートの整理等多くの祝福を私達に与えました。
この頃、体育館でも音が出せるように現在使っている本格的なアンプとスピーカーを購入しました。
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1994年春、水、土曜日もHISにて集会を始める。
1994年夏、留美子がガルサ家族と共にメキシコを訪問
この時に留美子の存在(働き)がメキシコで知られて、後に日本語版ラテンアメリカ賛美CDの製作のきっかけになりました。
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1994年8月、アミスタ・デ・プエブラのセルヒヨ副牧師家族を含めた10人の宣教チームが来日。
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ガルサ宅での土曜日の集会
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124人が参加した |
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1995年春 好弘と留美子が結婚しました。それは札幌クリスチャングループ初の結婚式でした。
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紙で作られたドレス |
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通訳の奉仕をする留美子 |
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1995年夏 集会場所が福住から澄川に移る。
教会は少しずつ成長していましたがそれにも増して、HISも学生数が増えてきました。それで札幌市の援助を受けて澄川に新校舎が建設されました。それにともない札幌クリスチャングループの集会も新校舎で行われるようになりました。それは以前の旧校舎とは比べ物にならない立派で美しい建物でした。
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1995年12月ハビエル・ミッチェルが家族で来日。
彼は有能な教師であり、1996年5月の第1回ユースキャンプ(現在CFA主催のユース・フォーザ・ネイションズの前身)のゲストとして語った「純潔」というメッセージはその後数年たった後も語り継がれ、各地から注文が相次ぎ、多くの人達の祝福となりました。
また彼はコンピューターの分野に精通しており、デザイン、会計管理、Eメール(当時やっとインターネットの存在が一般に知られてきた頃でした)などあらゆる分野にわたって教えを残し、現在の教会ITの基礎を築きました。また1999年に岡田夫妻がメキシコに留学した際、大きな手助けを与えました。
1996年1月
メキシコに1ヶ月の予定で帰国していたガルサ家族は、ロドルフォの両親の健康上の問題等によって、8月までメキシコに留まる事になりました。その間ハビエル・ミッチェルが牧師代理を勤めました。このハビエルと妻のチャリートはガルサ夫妻の留守の間に教会を励まし、大きな助けでした。
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クリスチャン新聞のコンクールに入選した |
1996年6月、ヒューストンからカンシオン社のプロデューサーが来日して、CD作製の為にライブのレコーディングをしました。これはラテンアメリカで最もヒットしたアルバム「Tu y Yo」の日本語版を作成するためでした。
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1996年秋 ガルサ牧師がCFAの学院長に就任しました。ガルサ家族はメキシコに滞在した8ヶ月の間に新しい油注ぎをうけて帰って来ました。
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セレナーデを歌う、ガルサ夫妻 |
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