五役者の学び (03)
3日目 牧師
五役者の中で一番理解されていそうでそうではないものの代表が牧師です。
その理由のひとつは、現在「牧師」という肩書きが事実上ほとんど唯一の「教会の責任者の名称」となっていますが、以前書いた「牧師という肩書きについて」という記事にあるように、牧師と一言で言ってもさまざまな種類があるからです。
二つ目の理由は聖書に「牧師」という言葉はほとんど出てこないことです。というか新改訳聖書ではエペソ4章11節に一回出てくるだけです。
つまりそれは今日の教会観自体に修正が必要であることを意味しています。
今日の牧師的がしているような働きを担った人とはいったい誰だったのでしょうか?
それは「長老」や「監督」です。
(1ペテロ2:25)にも触れていますが使徒20:28を見るならさらに理解が広がります。ここに監督が牧するという話が書いていますが、この監督すべき立場の人間とはいったい誰だったのでしょうか?パウロは誰に向かって語っているのでしょうか?それはその文脈を見ればわかります。
使徒20:17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。
そう、この監督とは長老のことなのです。
聖書から、監督の守備範囲、長老の守備範囲がどこからどこまでかははっきりとはわかりませんが、いずれにしても、新約聖書の教会とは使徒の監督の下で長老や監督、あるいは両方の肩書きを持つ人たちが今日の牧師のような働きをしていたようです。
長老が牧会することについは(1ペテロ5章1〜2節)も書かれています。
とはいえ、現在の牧師がすなわち新約聖書の長老や監督という表現も正確ではありません。
なぜなら、当時の教会は教会の規模にかかわらずチームミニストリーが当たり前であって、今日のように「すべての責任と仕事を押し付けられたリーダー」という存在はなかったので比較できないのです。
長老という言葉に混乱してしまうひとつの理由は、「長老」がどれほどの地位を持った立場か明確ではないからです。
それもそのはずです。それは「何の」長老かによって違ってくるからです。つまりサンヘドリンの議員というイスラエル全体の長老もいれば、家庭のリーダー程度の長老もいます。その用語だけでその地位の高さや役割を推し量ることはできません。
そうではありません。
先に「賜物の整理」という記事の中で、必要を満たす為の役職として、第1コリント12章28節を引用しました。
教会の中でそれらの働きが必要なので、キリストの体のメンバーのひとりひとりが各機能を果たすためにさまざまな役割があるという話しです。
それを読んでひとつ疑問に思われた方がいるかもしれません。それはその中に「牧師」と「伝道者」がいないからです。
その理由は「牧会と伝道は一人一人の働き」という記事に書かれたように特別な人だけがするものではなく、全てのクリスチャンがするべきものだからです。
「五役者の牧師」というのは特別な役職ですので、現在牧師と呼ばれている全ての人がこの牧師ではありません。
この「五役者の牧師」という存在について知るなら、他の五役者についての理解も深まります。
また、それはつまり、五役者について学ぶからといって、牧師と信徒によって構成されていた教会が五役者と信徒にかわるだけではなく、教会メンバーの賜物が生かされチームミニストリーとして建て上げられていく事を理解することになるのです。
つまりこの学びは信徒一人一人が建て上げられる教えなのです。
牧会の働きは信徒一人一人が担うべきものです。教会の中で、単に交わったり、話を聞くときであっても、牧者としてミニストリーする気持ちで接しましょう。
何か自分の行動の過ちに気がついたり、改善点がないかを思い巡らしましょう。