五役者の学び (04)

4日目 教師・伝道者

日本では牧師が教師を兼ねる事が普通です。それは良い事でしょうか?

こういう質問をしたら「よくない」という答えを導いていると思われるかもしれません。しかし、今回は違います。なぜなら牧師と教師は切っても切れない関係にあるからです。

それは聖書の記述にも現れていますエペソ4章11節を見るなら、牧師と教師に関しては「ある人を牧師また教師として」(エペソ4・11)とつなげた表現がされています。これは単なる翻訳の問題ではなくギリシャ語でもそうなのです。

なぜなら、これら二つの役割は切っても切れない関係だからです。それはまるで、子育てにおいて「世話」と「教育」が表裏一体であるのと同様です。

教師について書き出したらきりがないのでいくつかを選んでお伝えします。


教えがあれば牧師の働きを軽減させれます。

出エジプト記18章でモーセがカウンセリングに追われていたときにモーセのしゅうとがいくつかのアドバイスをしました。そのアドバイスのひとつは「教えをする」(出エジプト記18:20) ことでした。

また、何をするべきか、なぜそうする必要があるのかを教えられずにクリスチャンはこうあるべきだなどと言われるのはフェアーではありません。


教師の資質

1)御言葉を実践すること

ヤコブ1章22〜24節にあるように教えるだけでなく、その人の人生と証がそれを物語っている必要があります。


2)経験に基づいて教えるのではない。

@自分は体験していないけれど、御言葉を教えること

教えることと、その人の人生と証(体験)が伴っていることについて書きましたが、それが妨げになることがあります。

私の記憶が正しければ次のようなエピソードを聞いたことがあります。ジョン・ウインバー師(ビンヤードの創始者)はある時点まで癒しの奇跡を体験したことはありませんでしたが、神に促されて教会で何週間も連続して語りました。

けれども何もおきず、失望してしまった。多くのメンバーが教会を去ってしまいました。

しかし、彼はお構いなしに信仰によって癒しについて語りました。その結果何ヶ月かした後に、癒しの奇跡が起こり始めたのです。

多くの人にとっての問題は、体験していなければ教える資格が無いと思ってしまうことですがそんなことはありません。

教師は自分の体験や感覚に基づいてではなく、神の言葉を教えるのです。

 

A主観的経験に基づかない。

体験に基づいた教えは非常に力強い教えです。誰も、否定できません。証+御言葉によって語られるメッセージには説得力があります。

しかし、体験したからといってそれが普遍的な真実に基づいた教えとは限りません。

たとえば、これらの結婚相手をみつける方法の教えなどはそうでしょう。

ですから「教師」は自分の経験や感覚を超えて、バランスよく物事を見ていく必要があるのです。


ここまでのことはすべてのレベルの教師に求められる資質ですが、特に五役者の教師それらに加えて、次のことが要求されます。

@他の人を建て上げる事が目的である

エペソ4章11節〜14節)にあるように五役者の教師であるなら、他の人を建て上げる事を目的とするべきです。つまり教師の中には自分の研究に没頭してその道を極めようとする人がいますが五役者の教師はそうであってはいけません。

 

Aバランスをもたらす

教えとはバランスをもたらすものである。したがってたとえそれが極端な事であっても、「

トロント・ブレッシングの教えの例」にあるように、主はそれを天秤の片側としてその重りを置く事をあえて許される事があります。

ですから教師は、その教えがバランスをとる為の容認であって永遠の真理ではないことを自覚する必要があるのです。

どのようなよい教えであってもそれにしがみつきすぎないのはよいことです。

 

Bよい教え、真実の教えであればよいわけではない

教師の教えが真実であるなら何も悪いわけではないはずです。しかし、それだけはいけません。

たとえば、自虐史観からの脱却について教えている人もいますが、たとえ言っていることは正しくても、それに使徒的な戦略がなく、ただ、「日本人に自信を与える」ためだけであったとしたら多くの人の賛同は得れないでしょう。それどころか反発を生むかもしれません。

ですから、教師は使徒的ミニストリーと共に働き戦略の中で動いていく必要があるのです。


■ 古いものと新しいものを取り出すこと。

五役者の役割のひとつは、エペソ4:14 )にあるように教えの風から守ることです。

教えの風から守るとはどういう意味でしょうか。それは異端的な教えから守るという意味だけでなく、正しい教えであって時に応じてきちんと適応しなければならないのです。

キリスト教にはいわゆるムーブメントがあります。それは単なる流行ではなく、ほとんどの場合神から出たものです。それはちょうど「神の真理の回復は、ちょうど戦いのための武器を一つ一つ与えていくようなもの」という記事にあるように、神が新しい武器を教会に与えているのです。

しかし、それが神からのものであっても、それを上手に扱えなければマンネリ化してしまうでしょうし、新しいものを喜ぶあまり、古いものを否定したりしてしまいます。

必要なのはときに応じて賢く新しいものでも古いものでも使い分ける(マタイ13:52)事なのです。

教師に必要なのは、バランス感覚であり、新しいものを受け入れる柔軟性なのです。



■伝道者

(今回はたくさん書きませんのでいくつかのポイントのみ)

伝道者という言葉も今日正確に用いられていない場合があります。

特に「伝道師」と呼ばれる役職名については教団によっては牧師になる前の段階の役職、すなわち「教師補」あるいは「牧師補佐」とされています。ですから、伝道を一切しない伝道師もいるのです。

もちろん、そういったものをさしているのではありません。だからといって伝道すればよいというわけではありません。なぜなら五役者の一人であるなら自分が活躍することではなく、他の人を建て上げることに焦点を当てるべきだからです。


デボーションのテーマ

(1)他の人を建て上げるのに、別に五役者になる必要はありません。また、たとえ救われて間もない人であっても自分の子供や一緒に成長している兄弟姉妹を建て上げる為に自分が何ができるかを考えましょう。

(2) バランスのよい成長の為に自分に何がかけているかを思い巡らして、それを祈り求めましょう。