F−1(土曜日)(配信は金曜日)

教会の中と外、信者と未信者の垣根を下げることのリスク

ライフプレイスミニストリーをする上で自然と生じることは「教会の中と外、信者と未信者の垣根を下げること」です。

実際、未信者であっても無意識のうちに神様に仕えることが生じます。
たとえば、前の豊平区民センターの主任は、スーパーキッズの働きを評価しており彼自身が宣伝しており、また、私たちが会場を借りやすくなるように便宜を図ってくださっておりました。

しかし、逆に言うなら「クリスチャンが無意識のうちにサタンに仕える」ということも生じてきます。


明文化されているわけではありませんが私が感じているSCGのありかたについて説明いたします。

とある説教者が語る教えの中で「教会はチームであるグループではだめだ」というのを何度か聞いたことがあります。
言いたいことはわかります。チームは「結束力があり、同じ目的に向かっていく同労者」であり、グループは「無責任なゆるいつながり」というイメージでしょうか。
まあ、別に教会の名前がグループだからと言ってSCGが無責任なゆるいつながりというわけではありませんし、確かに言われている意味では教会はチームである必要があると思います。

それでもライフプレイスミニストリーと言う概念を知るにしたがって「教会の中と外、信者と未信者の垣根を下げること」が大切であることもわかってきました。

そのようなわけで、ちょうどよい落としどころは、「SCGは牧師スタッフや奉仕に携わる人たちのチームによって運営され、グループとして未信者を含めた一つのつながりとして機能していく」といったところでしょうか。
その「未信者を含めた一つのつながり」というのはメンバーの未信者の伴侶や友人家族、私たちが日常生活の中でミニストリーをしている人たち、SKCの参加者などのことです。


しかし、信者と未信者の垣根を低くする時にはリスクが生じます。
代表的なのは先日書いた、「ライフプレイスミニストリー的な男女交際と結婚についての考え方」というようなことでしょう。

その問題解決に必要なことは基礎の学びの「してよいこと悪いこと」の中でも触れているように、一人一人が成熟することでしょう。


さて、
先日日曜日に行われたベビーシャワーでその日初めて礼拝に参加された未信者の方が留美子ととともに歌ったり、フラメンコを歌ったりして大いに盛り上がりました。
また、クリスチャンですが私たちの教会のメンバーではないしどこかの教会に集っているわけではないユキコさんが子育てのワンポイントレッスンをしました。
未信者と信者、教会のメンバーかそうでないかを分け隔てないで一つのものを作り上げて教会を盛り上げようというのは私たちの教会によくみられる姿勢です。

そういったことは、パーティーの中での出来事であるならまだよいのですが、礼拝の中で未信者に配慮しすぎる中で妥協が生じるかもしれません。まあ、譲れる部分については多少妥協して、未信者が礼拝に参加しやすい環境を作ることは良いことだという考え方もできますが、妥協したやり方が標準になってしまうときに、全体としての霊性が下がってしまう事もあり得ます。


そのようなわけで、
ライフプレイスミニストリーとは楽なイメージがありますが実はより高い霊性が必要は働きなのです。というのも、宗教的な枠組みを作ってその中に自分を置くことによって世の影響から守られるというような方法がとりにくいからです。

一旦ライフプレイスミニストリーのビジョンをつかんだら、ある人はどうしてほかの教会はそのようにしないのだろうかと思ってしまうかもしれませんが実は難しいことなのです。

そして、現在SCGもその危険にさらされております。気が付かないうちに世の影響が入ってくることでしょう。
私たちの取り組みが吉と出るか凶と出るかは今の私たち一人一人にかかっているのです。
十年後に「ライフプレイスミニストリーって駄目だったよね」と語られる時代が来ることもあり得るのです。


私たちの教会で、以前よりも聖餐式を頻繁にしていない理由は・・・

一番大きな理由は、形式や儀式ではない本当の意味での聖餐式(※)を求めてのことです。

※ そういったこともあって(第一コリント11章23節〜34節)の御言葉に従って「普段の昼食の中での真の聖餐、愛餐の本質を行う」的な取り組みをしようとしていましたが、完全に理想道理にはいっていない、少なくとも「礼拝の中で聖餐式をやめて、普段の生活の中でその本質を再現する(※※)」的なことはできていないと思います。

※※ とはいえ、最近思うことは、私を含めて私たちは理想的なほどには霊的ではないし成熟していないということです。そうであるなら、どこもしていないような理想を追い求めるよりも、その件に関しては教会の伝統の中に自分たちを置く(※※※)ことのほうが良いのではないかと考え始めています。

※※※ つまり本質を云々いうよりはたとえ儀式的なってしまう可能性が一部の人にあったとしても礼拝の中で聖餐式を行う事のほうが良いという意味。

こういうことを書くことは多くの人たちにとってあまり意味がないかもしれませんが、牧師が何を考えて何をしているのかを知りたい人には意味がある事かと思います。

しかし、そういった意味のほかにも、単に礼拝の中で「信者と未信者の垣根を作らない」という意味もあるかと思います。

デボーション

ライフプレイスミニストリーの中に入って行くことができるように、霊的に整えられるように主に求め、また自分ができること(祈り、御言葉、断食)をしていきましょう。