うめき (10/05/09)

まず第一に起こる揺り動かしはキリストの体に対する霊的な揺り動かしであると先に書きましたが、それとは別に実際に予測されうるものとしては世界経済の冷え込みや地震などの災害による揺り動かしでしょう。

経済については(要ログイン)これまで語ってきたので今は繰り返しませんが、いずれにしてもこのような被造物の揺り動かしについて、ただ、問題として見るのではなく、霊的な視点から見るならそれは被造物のうめきであることがわかります。

ローマ人への手紙8章18節〜27節をみるならわかるのですが、ここでは、被造物のうめきと関連してクリスチャンの霊的なうめきについて書いてあります。

先に2つの洪水について分かち合いましたが、ここ御言葉には2つのうめきについて書いてあるのです。

この被造物のうめきは「神の子たちのあらわれを待ち望むため」であることがわかります。

※ ここで言う神の子とはイエス・キリストのことではありません。彼は神の子であって子達ではありません。それは、私達クリスチャンのことなのです。


なんということでしょうか、私達はニュースで被造物全体がうめいていることを常に耳にしていますが、それは、とりなしの祈りだったのです。そして、彼らは私達がクリスチャンが立ち上がることを待ち望んでいるのです。

滅び行く世界の行き先を変更し、神の栄光をこの地上で表していくための鍵は御霊による私達のうめきなのです。

歴史は定まっていない」の教えにあるように、世界の行き先を変えることができるとりなし手が立ち上がることを被造物全体が待ち望んでいるのです。

「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。」という言葉で始まり断食を布告しているイザヤ書58章のひとつの到着点は12節にあるような「昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、『破れを繕う者、市街を住めるように回復する者』と呼ばれよう。」という言葉なのです。

そう、確かに私達に与えられた召しは、回復させるものなのです。


私達はどのようにして祈ればよいのでしょうか?

それは「うめく」ことによってです。

ローマ人8章26節の「御霊のうめき」のことをこれまで「異言の祈り」と解釈されてきました。

それはひとつの解釈として正しいと思いますが、それは応用であって本来の解釈ではありません。

本来の解釈とは文字通り「うめき」なのです。

今日、世界中で被造物のうめきが増大しています。それに伴い、私達の霊的なうめきも増大させていくのです。

うめきといっても、これは、御霊によって動かされたうめきでなければなりません。

祈りの祭典最終日のミニストリーは突然起こったわけではありません。その前に夜中12時からの祈りの塔の中でそこにいた参加者達が1時間以上にわたってうめき、異言で祈りとりなす時があったのです。

また、祈りの祭典自体が世界中で、積み上げられている祈りの集大成であったというのであるなら、これはまさに祈り、叫ぶべき大きな機会だったのです。

この御霊によって動かされうめく結果、私達はどのような状況の中にあってもローマ8章35節〜37節にあるように「神は全てを益」とされ、私達は「患難の中にあっても圧倒的な勝利者」となることができるのです。


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