国家を代表して謝罪することの問題点。

ネヘミヤがそうしたように(ネヘミヤ1:4−6)私は、誰か一人のクリスチャンが、過去における誰かの罪、地域の罪を代表して同一化の悔い改めの祈りをすることを否定しておりません。

たとえ一個人であっても私たちはこの世に大使として遣わされている(第2コリント5章19〜20節)のですからその資格はあります。

しかし、今日、日本人がアジアで行っている、太平洋戦争の日本人の罪を悔い改めると称して行っている「同一化の悔い改め」には問題点があります。


1つ目の問題点は、一度、悔い改めた事柄は、主の前で有効なはずだから、前に誰かが祈ったのであるなら、もう一度それをするのは本当に必要なのか立ち止まって考える必要があることです。

2つ目には、謝罪を受け取る側も、たとえ前とは別の人であったとしても、その人の為に謝罪することは、前に謝罪を受け入れた人の受け入れが十分ではなかったと言うことになりかねないからです。

もちろん、ここまで話を聞いて、「いや、一回祈っただけでは十分ではない何度謝罪しても良い。」といわれる方もいるかもしれません。同様に、私も以前はそう考えていたので、時に気にしていませんでした。


私が本当に危機感を感じたのは、2009年の名古屋での祈りの祭典でした。

このときに、中国から来た説教者を紹介する際に、ある日本人の牧師が(ただ、紹介すればよいだけの状況にもかかわらず)自分が過去に見た幻を根拠に日本人の犯した罪を悔い改め謝罪しました。ここまではよくある光景なので、それだけでは私は何も言わなかったでしょう。

けれども、その牧師は2006年の大阪での祈りの祭典において、まったく同じ幻について分かち合い、謝罪と和解のときを持ったからです。つまり、祈りの祭典と言う同じセッティングで、同じ罪について、また、和解のための時間ではなく、ただ説教者を紹介するだけの状況においてそれをしていることに対して違和感を感じました。

この2009年の祈りの祭典のテーマは「東アジアがひとつとなって共に立ち上がる」というものでした。しかし、その段階にまだ日本が解放されていないことを表していました。そして謝罪すればするほど、日本人の中に罪責感が刷り込まれていくのです。


そしてまた、別の問題は事実ではないことを事実として歴史に刻み込んでしまうことです。

人というのはそれほど過去の歴史について知りません。「従軍慰安婦の問題」において書いたように、真実ではないことについて的外れな謝罪をするなら、初めて聞かされたことであっても、それが歴史の事実として刻み込まれてしまうのです。


さて、私が本当に言いたいのはこれからです。

ここまで書いた事柄だけであるなら、私は容認できることです。一人のクリスチャンが、まして牧師が「御霊に導かれてしている」というのであるなら、私は口を挟むことはできないでしょう。

しかし、こういったメンタリティーが日本人に戦後61年以上たっても拭い去れない罪責感をもたらしているのは事実です。 日本人はどうして何度も何度も同一化の悔い改めの祈りをしているにもかかわらず赦されたという感覚を受け取ることができないのでしょうか?その理由を立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。

この終末の時代のとりなし手を建て上げるという意味において、さらに言いたいのはこのことです。

サタンはこの日本人の罪責感を用いて終末における自分の計画を成し遂げようとしているからです。

それは外国人参政権の問題や人権侵害救済法などといった日本人の90%以上が反対しており、日本の国益にならないことを日本人のクリスチャンの国会議員の大多数が賛成しているのを見るにあたって、日本人は本当にだまされていると思います。


そして、それは中国を中心とした東アジア連合を創設し、世界統一政府樹立のための足がかりとなるのです。

私は日本を愛していますが、究極的に言うなら、私にとってもっとも大切なことは神の御国であり、日本人の名誉ではありません。 たとえ世界中から誤解されたとしても、イエスキリストも誤解されさげすまれたわけですから、耐え忍べばよいのです。

しかし、日本人の無知とその美徳がサタンの仕業の拡大に用いられているとするならば私は黙認できないのです。