4日目:御言葉による識別

(ヘブル4:12) では神のことばは物事の見分けのための強力な武器であると語っています。

ですから、御言葉を読み学ぶことが重要です。

通常は、翻訳された自国語の聖書を読むだけで十分ですが、翻訳されたものは翻訳されたものなので、それが必ずしも正確とは限りません。

また、「TRとRV底本」という記事にあるように、どのギリシャ語聖書を底本にするのかという問題がありますが、そこまで根本的な問題でなかったとしても、「聖書の翻訳に教理を入れてはならない」というように、正しく伝えようと力を入れすぎるときに別の極端に入ってしまう場合があります。


また、どちらにでも翻訳できる場合があります。

たとえば、ハレルヤということばは聖書のどこにでも登場すると思われるかもしれませんが、英語の聖書(KJV)には一度も登場しません。そのことばはpraise the Lord「主をほめたたえよ」と翻訳されているからです。

それぐらいだったら、ニュアンスの違いなので大事ではありませんが、本来の聖書のことばを間違えて伝えてしまうことばもあります。


たとえば「キリストの信仰による救い」というのはその最たる例です


じゃあ、全部原語から学べばよいのですが、普通の人はそんな時間も能力もありません。

それで、だらかに教えてもらうことになるのですが、それを鵜呑みにするのも問題です。

今日、誰でも気軽にヘブライ語から学べる環境が整っているので、最近ではそれほどではありませんが、以前は「ヘブライ語ではこうである」といいながら間違った教えがなされていることも数多くありました。

おそらく、自分で調べないで、誰かから教わったことを伝言ゲームのように教え伝えたからなのでしょう。

たとえば、「ヘブライ語から見る聖書的7つの賛美」とか「レーマが預言的な神の言葉でロゴスが書かれた御言葉というわけではない。」という記事にあるように、キリスト教、特に聖霊派と呼ばれる教会の中で当然のように語られているけれど、実際には正しくない教えというものも数多くあります。

そのように、良い教えであっても、それが強調されすぎるときに別の方向に行ってしまうこともあります。


「御言葉による識別」というテーマで記事を書き始めたにもかかわらず、それについての内容には深く見ていく時間がなくなってしまいましたが、それでも、知っていただきたいことは御言葉から識別するという一見簡単な問題であっても、さまざまなことを考慮する必要があるのです。


いずれにしても見失ってはならないことは、御言葉は私達の信仰の土台だということです。

サタンは私達に疑いを持たせようとしますが、それに対抗しなければなりません。


デボーション

(1) 自分自身が神のことばがに対して飢え渇きを持っているかどうかを吟味しましょう。

(2) デボーションの習慣をつけましょう