聖書はキリストが神であることについて直接的な記述はほとんどない  (25/05/15)


私たちはキリストが神様であることを知っておりますが、意外なことに聖書の中には、その様な直接的な記述はほとんどありません。

あるとしたら、トマスが蘇ったイエス様を疑った後に発した「私の神、私の主」という言葉ぐらいです。

もちろん、聖書を読み込めば、彼が神であることは分かるのですが、どうして直接的な記述が少ないのでしょうか?


その理由は、まず第一に

キリストがこの地に来られた一番大きな理由は、私たちの罪の贖いの代価となる為でした、そうであるなら、その部分が強調される必要がないのです。

また、2番目の理由としては「キリストが仲介者である理由は彼が神であり人であるからというよりは、人となられたからである 」という記事にあるように、「人であること」が重要だからです。

※ もちろん、罪のない人であることは重要です。

その根拠は、罪を犯す前のアダムは神の性質を持たない人でありながら完全に仲介者としての働きをしていたからです。


二つ目の理由は、当時のユダヤ人クリスチャンにとって、それは受け入れがたいものだからです。

パリサイ人律法学者たちは、当時メシアとして祭り上げられていたイエスに対して懐疑的でした。こやつが本当にメシアなのだろうか?と疑いの目で見ておられました。

しかし、彼がメシアとして祭り上げられたり、あるいは自分でメシア宣言をしたとしても、それは決定的な階への冒涜ではありませんでした。

パリサイ人律法学者たちがイエスを殺したいと思うほど憎んだ理由は何だったのでしょうか。それは()にあるように、ご自身を神と等しくされたからです。


言い換えるなら、当時のメシア観というのは、あくまでも「人である」ということでした。

実際、今日イスラエルに行くと、特に超正統派の間で、高名なラビを指して「この方こそメシアだ!」というようなポスターを見かけます。

つまり、ユダヤ人にとってのメシアというのはあくまでも人なのです。

それが意味することは、イエスさまについても当時のユダヤ人信者たちはその様な目で見ていたのだと思われます。


それは少し考えればわかることですが、「神は唯一である」とそれまで信じてきたのに、キリストに対して、彼が神そのものであることは受け入れがたかったでしょうし、あるいは神様が二人もいるのかと疑いを持ったことでしょう。

ですから、彼らにとっては、キリストが神そのものであるかどうかは重要な事ではなかったのです。

もちろん、神の子でありメシアであることを信じておりました。


それにしてもある人は疑問を持たれることでしょう。

というのも、そんな考え方だとキリストの神としての地位が脅かされると考え、それは畏れ多いことだと考えるのです。

しかし「キリストの見かけの地位は時代と共に変化している」という事柄を理解するなら、そんな心配はないことが分かります。

三位一体ですら完成形ではないからです。


キリストの地位を守ろうとする運動

キリスト教の歴史は異端との戦いの歴史です。その内容の多くはキリストは神ではないとする教えです。

ですから、正統派のキリスト教ではキリストの地位を守ろうとする努力がなされてきました。

その中には、本来聖書が言っていること以上の翻訳がされているものもあります。


新改訳聖書の古い版はキリストの地位が聖書がいう地位に置いていない」という記事にあるように、代表的なものは古い版の新改訳聖書(1版〜3版)です。


この編集方針は別に異端的思想を広めようとしているわけではないので、ある意味無害ですが、完全に問題がないとは言えないと思います。

祈りは父なる神にするものである」という記事にあるように、祈りにおいてイエス様に祈る人が結構いるのはその様な背景があると思います。

また、「マリアに祈るカトリックの異端的な考えの原因の一つは三位一体の教えによる」という記事にあるように、カトリックのマリア崇拝の遠因もこれにあるのではないかと思います。


少し、新改訳聖書をディスりましたが、現状、日本語では一番の聖書翻訳であると私は考えております。

それは「新改訳聖書翻訳者が日本を守った」という記事にあるように、御言葉を守る戦いを勝ち抜いたからです。

 

 

 

 

 

 


(付録)

新改訳聖書2017が間違えて翻訳している箇所

https://plsk.net/2017error