L 6日目:(金曜日)(配信は木曜日) 終末におけるリスク
先に「建物を持たないことのリスク」について書いた際に、教会のビジョンにしたがって考える必要がある的なことを書きました。
SCGのビジョンや方向性については様々な機会を通じてある程度伝えては来ましたが、伝えきれていなかったものもあると思いますので、この機会に書かせていただきます。
それは 「終末の時代に生き残り成長していくこと」です。
このビジョンと言うのは、何か独立した突拍子もないものではなく、その他のもの、たとえば「家族中心の価値観」や「リスク分散」、「ライフプレイスミニストリー」などと言ったことともつながっているものです。
私たちは以前、区民センターから環状通を挟んで反対側にあった永井ビルと言う場所で集会しておりました。そのビルのオーナーが破産したことによってビルの売却が決まり、私たちはそこを出ていかなければならなくなりました。
そのようなわけで、今のように区民センターを借りて集会することを16年前に決めましたが、その時からメリットとして意識していたことはこの終末の時代(※1)において生き残れる教会にするということです。
終末について語る場合に大きく分けて二つの意味があります。一つは良い意味です。
すなわち、
イエス様が再び戻ってくるという喜ばしい意味です。つまりすべてが回復して立て直されるということです。 そして第1ロテサニケ4:17にあるように私達は天に携え挙げられてイエス様とお会いするのです。
もう一つはその出来事の前に起こる、黙示録に見られるような患難の時代、迫害の時代が来るという悪い時代だという意味です。
以前レフトビハインドという小説および映画が大ヒットしましたが、そのせいで「患難前携挙説」がより広まりました。つまり、クリスチャンは患難時代が来る前に天に引き上げられるので苦しまなくてもよいという世界観です。「レフトビハインドクリスチャンへの警鐘」という記事にあるように、それによってクリスチャンが眠りこけてしまっているように思います。
16年前に賃貸とはいえ建物を手放さねばならなかったときに、私たちは「終末の時代に生き残れる教会はどのようなものか」について考えはじめました。
そして、一つ感じていたことは、そんな時代に有利な教会とは建物を持たない教会ではないかと言うことです。
どうして建物を持たないことが終末の時代に有利なのかはうまく説明できませんし、だからどうしたというような感じかもしれません。もちろん、メリット、デメリットがあるでしょうがいくつかの理由によって建物を持つことが足かせとなる(※1)ことがありえます。
(※1) その頃に漠然と考えていたことは、終末の時代には政府の干渉が大きく、それに従わなければ(たとえば、マイクロチップを体に埋め込まなければ)「宗教法人格を取り消す」という脅しがあるような状態かもしれません。法人格が取り消されたら固定資産税を支払わなければならなくなるので教会は妥協するようになる。といった感じのものです。
終末の時代に生き残る教会の姿
したがって「終末の時代に生き残る教会の姿」は次のようなものだと思います。
神の御心を行う教会
余分な人間的なものがそぎ落とされた教会
教会の本質を追い求める教会
迫害のただ中にあっても集い続けれる教会
ですから問題にすべきことは、建物があるかないかの問題ではなく、教会が本物になっていくのかどうかという問題なのです。
建物がなくてもメンバーたちの求心力があり成長できるとするならつまり、それはおそらく教会の本質というものを備えた成熟した教会であろうことなのでそういった教会は終末の時代にも生き残れる教会だということです。
ただこの16年間の時間がたつにあたって、教会も変化しましたが私の考え方も変化していることを感じます。
私たちの教会は、少なくとも16年前にイメージしたような形として(※2)終末の時代に生き残れる教会ではない(※2)ことが明らかにされてきた(※3)ように思います。
(※2)生き残れないという意味は、マイクロチップを受けなければ売ることも買うこともできないような時代において、それに抵抗し続ける教会になれないと感じたという意味です。
もし、そのような終末の患難の時代に、本当に対応するなら、それは、おそらくプレッパー(Wikipedia)と呼ばれるような生活になることでしょうが、それを教会員に求めることは現実的ではありません。
(※3)もちろん、終末の時代の教会に神様が求めているのがそのような姿では無いならそうすべきなのですが。
そう感じたのは、コロナワクチンに対する反応を見たからです。
これについて書くのは誰かを責めているわけではありません。
ただ、現状を知る(※5)のに役に立ったということです。
(※5)現状を知り、それに即した牧会をするというのは良いことだと思います。
たとえば、私たちの教会ではパフォーマンス主義的なことを極力なくそうとしていますが、それは等身大の教会の姿を知る為にも有効です。
もし、本音で語ることがはばかれて、牧師に気に入られようとする行動をしてしまう環境であったなら、それは教会の現状が現れていないわけですから、それを基準にして、もし牧師が次はこうしようと決断しても、メンバーが付いてこれないということもあると思います。
私の責任は空絵事で宙に浮いた教会を建て上げることではありませんので、これまでもそうであったように、これからも、現状に即した方法をとっていく必要があると思います。
それは、牧師が変わった時に途絶えてしまうような働きならやらなくても良いかと思います。
いずれにしても、現状に即しつつも、「ヘビのように悟く鳩のように素直な教会」でありたいと思います。
そのようなわけで建物に関して言うなら、私は以前よりは建物を持つことに対して心を開いています。しかし、その理由の一つは(皮肉にも)「理想的な形で終末の時代を歩むことを目指すことをあきらめた」というのがあると思います。
つまり先に書いた「終末の時代に生き残る教会の姿」のような夢描いた形としてなることをあきらめた(※4)ということです。
(※4)それは、皮肉的な意味もありますが、等身大に生きるという意味で良いことともいえます。
ただし、「終末の患難期に会わずに済む方法」という意味での積極的に終末を生きると共に患難にも合わないという選択はなくなるかもしれません。
いろいろ書きましたが、これを書いた理由は、私が教会を建て上げることについて考える時に、心の片隅に、こういった事柄も意識しているということを知っていただきたいのです。(※5)
※5) もちろん何も考えていないことや自然にそうなったことも多いので、あまり買いかぶり過ぎないでください。
それがわかっていただけたら、教会で教えたり導いている方向にどのような理由がわかると思います。
また、私も意義や意味について気が付かないでしていることもありますので、気が付いたら教えてください。
ライフプレイスミニストリーしかり、スモールグループしかり、基礎の学びしかり、チームミニストリーしかり、結婚や家族についての教えしかり、そして建物をどうするかについてです。
デボーション
終末の時代を意識し、自分に何ができるのかを考えてみましょう。
教会で行っていることについての意義や意味を見出していきましょう。