聖書に基づいた正統派キリスト教会★札幌クリスチャングループ

奉仕は特権であって優劣ではない

私たちの教会では必ずしも必要ではないものは極力排除しております。それゆえ教会の運営を支えるために必要とされる奉仕も最小限です。

また、わりと人数がいるので一人一人の奉仕も最小限で負担は少ないです。ですから教え導く立場の人でもなければ平日の奉仕はほとんどありません。


奉仕は自由意志に基づいて行われます。 そして、一番大切なことは、奉仕をしていない人が引け目に感じるような雰囲気がないということです。奉仕をしているから偉いとかより霊的であるという雰囲気は全くありません。

もう一つ大切なことは、失敗やうっかりといったことが容認される雰囲気です。誰かが失敗したり遅刻したからといって、責められることはありません。

賛美リードやメッセージを語るといった重要な奉仕を担当していたとしても、自分の為や、運動会や親せきに集まりなどのために礼拝を休むことはまったく問題ありません。
それはまだ神様を知らない人に神の御国の価値観を伝える良い機会だと考えていますし、また、それは奉仕についている人に対してねぎらい感謝を与える機会だととらえています。
そして人員に欠けが生じたときには、その機会に他の人にチャンスを与えて建て上げるためのチャンスだととらえます。

建て上げる機会

奉仕を依頼するときに、私が心掛けていることは奉仕をする人がそれによって祝福を受けることです。これについては先の「祝福して益を与える」に書いたことにも通じます。

また、特別な人を作らないように心がけています。私たちの教会ではレギュラーメンバーとして賛美リードをする人が5人、予備の人が2人います。そして彼らは月に1回しか担当しません。礼拝メッセージ牧師が語るのは月に2回だけで、別の日はその他の人たちが語ります。

そして、その人でなければ礼拝が成り立たないという状態は極力作らないようにしております。そうなってしまうと、負担がその人に集中してしまいますし、また人によっては高慢になったり、他の人を裁いたりしてしまうかもしれません。私たちの教会には特別な人がいないのです。

最高の人が最高の奉仕をする必要もありません。私たちの教会には幾人もの通訳者がいますが、みんなが上手にできるわけではありませんが、その機会を与えます。彼らはうまくできなくても大丈夫だということを知っているので、働きに着くことを躊躇しないのです。

 


ナイチンゲールの言葉

「犠牲なき献身こそ真の奉仕」

これはナイチンゲールの言葉です。
彼女は看護師と言う制度も職業も整備されていない時代に、自分自身を捧げまた私財を投げうって新しい働きを整備しました。

多くの人は彼女の事を自己犠牲の塊のように考えますが、そんな彼女の「個人が犠牲を払うようでは本当の奉仕ではない」と言う一見矛盾するような言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。

その言葉の意味は、看護師と言うプロ集団に対して彼女らの無償の自己犠牲に依存するような働きであっては長続きしないという意味です。

そして、この原則は教会の奉仕においても言えると思います。もちろん、教会で奉仕する人はプロ集団ではないし、報酬を受け取っているわけではありません。ですから、まったく同じようにその言葉を適応することはできません。

それでも、このことから学べることは、教会を建て上げる働きというのは、一部の人の自己犠牲によって成り立つようではあってはならないと思います。

もちろん、神を愛する人が見返りを求めずに仕える姿は麗しいものです。しかし、それも程度によります。

日本人は頑張りすぎる傾向があります。

また、奉仕をすることで、本来向き合うべき神様との関係が見過ごされたり、通るべき心の癒しの過程をすっ飛ばしてしまう場合もあります。
ですから、私たちの教会では一部の人に多くの犠牲が伴うような運営はしないのです。