新約聖書を見るとイエス様の働きに一番反対していたのは律法学者やパリサイ人でした。イエス様がこの地上に来られた理由の一つはまさにこの律法主義的な信仰から人々を解放するためでした。
それにも関わらず、今日においても教会は律法主義的になってしまう事があります。
どうしてそうなってしまうのでしょうか?そうなってしまう理由はさまざまでしょうが、その理由の一つはもしかしたらその人の内に神様が働くことに期待していないということかもしれません。
教会がメンバーに対して間違ったことをしないように聖書が言っていること以上のルールを守らせようとすることがあります。それは一時的にはその人を守ることができるかもしれませんが、本当の意味でその人を変えることができるかどうかはわかりません。
私たちがルールで縛ることをしない一つ目の理由は、神様の働きを邪魔しないようにしたいと願っているからです。
というのも、そういった境界線侵害はもしかしたら失敗を通じて神様が何かを学ばせたいと願っている機会を奪うことになるかもしれません。失敗は誰にもあります。たとえ失敗しても神様の元に帰るなら決して拒まれることはありません。そしてその失敗はその人の人生の糧となることでしょう。